長野県市田村一家7人殺害事件
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長野県市田村一家7人殺害事件

場所 日本長野県下伊那郡市田村大字大島山976番地[1](現:下伊那郡高森町大島山)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度33分58秒 東経137度51分46秒 / 北緯35.56622928671879度 東経137.8627578835701度 / 35.56622928671879; 137.8627578835701座標: 北緯35度33分58秒 東経137度51分46秒 / 北緯35.56622928671879度 東経137.8627578835701度 / 35.56622928671879; 137.8627578835701
日付1946年昭和21年)5月9日[2]
23時ごろ – 24時ごろ[3] (UTC+9)
攻撃側人数1人(推定)[4]
武器薪割り用の[5][4]
死亡者7人[6]
損害玄米4俵、精米15 kg[2]
犯人不明: 力のある左利きの男と見られる(後述[4]
動機不明: 食糧困窮者による犯行とする説が有力視されていた(後述[4]
対処長野県警が捜査するも、犯人未検挙のまま公訴時効が成立[2]
刑事訴訟未解決のためなし
影響当時は貧困や食糧困窮に端を発する事件が続発しており、その世相を象徴する事件の1つとして取り上げられている(後述[7][8]
管轄長野県警察部(後の長野県警察飯田警察署[注 1]
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長野県市田村一家7人殺害事件(ながのけんいちだむらいっかしちにんさつがいじけん)は、1946年昭和21年)5月9日日本長野県下伊那郡市田村大島山(現:高森町大島山)で発生した未解決大量殺人事件である[12]。就寝中の一家7人が割り用ので殴り殺され、玄米4精米15 kgが盗まれた[12]長野県警察が発行する資料では市田村一家七人殴殺強盗事件[13][14][15]と呼称される。また地元の新聞では市田の一家七人殺し[16]、市田の七人殺し[17][18][19][20][21]とも呼称される。

本事件は現在の高森町域で戦後初めて発生した殺人事件であり[22]終戦直後の混乱期飯田下伊那の住民を震撼させた事件でもある[23]。事件当時は戦後、長野県内で発生した最も残虐な殺人事件と言われ[16]、長野県警(事件発生当時は長野県警察部[注 1]強盗殺人事件として懸命に捜査を行ったが[12]、初動捜査の不備に加え、終戦直後の混乱期であったことから捜査体制も整っておらず[23]、物的証拠が乏しかったことなどから捜査は難航、未解決のまま事件発生から15年後の1961年(昭和36年)5月9日に公訴時効が成立した[12][2]。長野県内で公訴時効が成立した事件は昭和に入って3件目で[21]、殺人事件に限れば戦後初めて県内で公訴時効が成立した事件であるとされる[12]。一家の主であった被害者の女性A1(当時38歳)が未亡人であったことや[24]、現場の室内が荒らされていたことから、動機は物取りと痴情の両説があったが、未解明のままである[23]
事件現場

現場の家は市田村大島山の集落の北西部に位置していた木造平屋建ての住宅で、間口7、奥行き3間半だった[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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