長野峠_(三重県)
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長野峠
長野峠
所在地三重県津市伊賀市
座標.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分42秒 東経136度19分36秒 / 北緯34.76167度 東経136.32667度 / 34.76167; 136.32667座標: 北緯34度45分42秒 東経136度19分36秒 / 北緯34.76167度 東経136.32667度 / 34.76167; 136.32667
標高494 m
山系布引山地
通過路国道163号(新長野トンネル)

プロジェクト 地形
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長野峠(ながのとうげ)は、三重県津市伊賀市の間にある国道163号の旧道であり、急カーブなど危険箇所が多く存在するため改良が望まれていたが、新長野トンネル (1,966m) 開通により解消され峠の通過時間が約10分短縮された。
概要

長野峠は
桐原書店発行 井出孫六編 『日本百名峠』に選ばれている。

歴史・沿革

飛鳥奈良時代、朝廷と伊勢神宮を結ぶ為に造られた奈良街道の途中にある峠。12代景行天皇の第七皇女五百野姫(斎王)は峠近くの五百野の地で都に帰る途中、若き生涯を閉じた。五百野の地名は五百野姫からきている。古くは馬野峠と呼ばれていたが、鎌倉時代後期長野工藤氏の勢力が増すにつれて長野峠と呼ぶようになった。

徳川家康本能寺の変が起こった時、堺から長野峠を越えて(伊賀越え)岡崎に帰城したという説がある。

1608年、豊臣方の押さえとしてこの地に入府してきた藤堂高虎津城伊賀上野城を結ぶ重要街道として街道の整備を行ったが、長野峠は豊臣方の侵攻に備えて整備をしなかった。藤堂藩が長野峠の拡幅工事を行ったのは豊臣氏滅亡後である。それまで奈良街道と呼ばれていたが、藤堂藩が津と伊賀を結ぶ官道として整備したことによいり伊賀街道と呼ばれるようになった。伊賀地域からは伊勢街道と呼ばれることもある。
猿蓑塚(さるみのづか)

元禄2年(1689)、俳人松尾芭蕉は伊勢神宮参拝を終え伊賀に帰る途中、峠の茶屋に立ち寄り、俳句を読んでいる。「初しぐれ 猿も小蓑をほしげ也」この名句は峠から伊賀方向に500mぐらい下った猿蓑塚に芭蕉句碑として残っている。芭蕉の生れ故郷・伊賀では芭蕉句碑を句碑ではなく芭蕉塚と呼んでいる。

1876年(明治9年)12月19日この峠を越えて伊勢暴動の一揆隊が安濃郡から伊賀へ進入[1]

1993年4月、国道の区間変更により長野峠を通る伊賀街道は県道から国道163号線に昇格した。

長野峠四つのルート

飛鳥奈良時代から明治時代までの旧峠のルート - 通行可能(車は不可)

1885年(明治18年)に造られた[2]旧長野トンネル(初代長野トンネル[2])ルート - トンネルは崩壊、通行不可。長さ216m[2]。(ただし、長さ205メートルとする資料も存在する[3]。)伊賀側と伊勢側の住民がお金を出し合って開通[2]花崗岩製の優美なアーチ状の構造が特徴である[4]。利用廃止トンネル[5]。地域住民からは「明治のトンネル」と呼ばれている[4]

1939年(昭和14年)に造られた長野トンネル(二代目長野トンネル[2])ルート - 長さ約300m、幅員約5.5m[2]。初代長野トンネルのほぼ真下に造られた[2]。トンネル内通行禁止[4]、利用廃止トンネル。地域住民からは「昭和のトンネル」と呼ばれている[4]

2008年(平成20年)に造られた新長野トンネル(三代目長野トンネル[4])ルート - 長さ1966m、幅員7m、高さ4.7m[4]。二代目長野トンネルの下に造られた[4]


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