長野主膳
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 凡例長野 主膳 / 長野 義言
長野義言(主膳)像(1890年作)
時代江戸時代後期 - 末期
生誕文化12年10月16日1815年11月16日
死没文久2年8月27日1862年9月20日
別名主馬、主膳(通称)、桃之舎(号)
墓所天寧寺滋賀県彦根市)
主君井伊直弼
近江彦根藩
妻滝野瀧女(多紀)
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長野 主膳(ながの しゅぜん)は、江戸時代末期の国学者で、大老井伊直弼の家臣。通称は初め主馬(しゅめ)、のち主膳。は義言(よしとき)。桃之舎と号した。
人物
前半生

伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)の住人である長野次郎祐の弟で、先祖は上州長野氏とされる。しかし、これは戸籍だけのことで出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。歴史に登場するのは天保10年(1839年)、滝野村の滝野次郎左衛門宅に寓居したときからである。天保12年(1841年)、次郎左衛門の妹で6歳年上の瀧女(たきめ、多紀とも)と結婚し、夫婦は京都、伊勢、美濃尾張三河を遊歴した。同年12月に近江国坂田郡の市場村にしばらくいたが、翌年には伊吹山麓にある志賀谷村の阿原忠之進宅に寓居する。ここで国史、和歌などを教授した。滝村、坂田郡とも和歌山藩と縁がある点が共通している。酒宴の席では、肥後訛りで喋っていた、という。

経緯は明らかではないが、天保13年(1842年)11月20日に門人と彦根に出て、夜に井伊直弼を訪ね朝方に帰り、これが3日続いてようやく去った。直弼は主膳に傾倒し、弟子となった。主膳は容貌典雅で和歌に通じていたが、眼光が鋭く油断のならない風であったとされる。非常に流麗な仮名文字入りの多数の手紙類が、近年井伊家資料から見つかっている。

どのような伝手があったのかは不明であるが、その後は京都に上って九条家に仕え、妻の瀧女は今城家に仕えた。関白九条尚忠孝明天皇女御・夙子(英照皇太后)の父である。また九条家は、井伊家とは格別な関係にあった。一方で、今城定章の娘で千種有文の姉である今城重子が孝明天皇の寵姫(典侍)であった。九条家では家宰を取り仕切る家臣(青侍)の島田龍章(左近)と交際を結んだ。
井伊直弼の謀臣

やがて井伊直弼が兄井伊直亮の死を受けて彦根藩主を継ぐと、主膳は直弼に招聘されて藩校弘道館国学方に取り立てられ、さらに直弼の藩政改革に協力した。

直弼からの信任は厚く、安政5年(1858年)に一橋派南紀派による将軍後継者争いが起こると、主膳は直弼の命で京都に赴き、公家衆らへの裏工作を行って南紀派が推薦する徳川慶福(家茂)擁立に貢献した。しかし、直後の安政の大獄で直弼に対して一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言したため、直弼に次いで恨まれる存在となる。

直弼が安政の大獄を行ったのは、島田左近などを通じて朝廷内部の動向に関する情報収集に当たっていた主膳が、戊午の密勅降下を察知することに失敗し、水戸藩士の「悪謀」を過度に進言したことが要因になった、と言われている。実際、老中・間部詮勝の上京に際しては、間部が入京する前に醒ヶ井宿にて出迎え、入京後に真っ先に密勅首謀者と目される水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門幸吉父子を捕縛するよう間部に進言するなど、入京後の志士捕縛の段取りを整えている。また、安政の大獄における第1号になった梅田雲浜の捕縛に際しても、元臣下である梅田の捕縛に消極的だった上京途上の小浜藩主・酒井忠義に対して、長野は酒井の腹心の三浦七兵衛を通して、このままでは京都における佐幕派公家の九条尚忠が関白辞任に追い込まれることになり、ひいては任地に赴く前から京都所司代の任を全うすることが叶わなくなる、今梅田を捕縛すれば、逆に鷹司政通近衛忠熙攘夷派公家を失脚させることができる、と酒井を脅して、酒井入京後の在野の志士捕縛の段取りを付けている。


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