長谷邦夫
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その他の同名の人物については「長谷邦夫 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

長谷 邦夫
生誕 (1937-04-07) 1937年4月7日
日本東京府東京市葛飾区
(現:東京都葛飾区)
死没 (2018-11-25) 2018年11月25日(81歳没)
日本栃木県塩谷郡高根沢町
国籍日本
職業漫画家・漫画評論家
活動期間1956年 - 2013年
ジャンルパロディ漫画
代表作『バカ式
『しびれのスカタン』
受賞日本作詩大賞(LP賞)(1974年
公式サイト ⇒http://kunio.52-52.net/
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長谷 邦夫(ながたに くにお、1937年4月7日 - 2018年11月25日)は、日本漫画家、漫画評論家、小説家、エッセイスト、詩人、作詞家、元大垣女子短期大学椙山女学園大学中京大学宇都宮アート&スポーツ専門学校等の講師。元日本マンガ学会理事。赤塚不二夫の長年のブレーン役。パロディ漫画におけるパイオニアとして知られる。日本の教育における漫画学科の草創期から関わっている人物でもある。
概要

石森章太郎主宰の東日本漫画研究会の同人として、赤塚不二夫とデビュー前から交流していた。彼らがトキワ荘に入居すると通い組として参加。もともと現代詩を書く文学青年でもあり、江戸川邦生名義で小説も発表した。また、SF同人誌宇宙塵』の初期からの会員でもあった。他に1974年井上陽水氷の世界』収録曲「桜三月散歩道」(元来は『まんがNo.1』の付録のソノシートのために作成された曲)の作詞で日本作詩大賞LP賞を受賞した[1]。1970年代は山下洋輔トリオとの交友も深く、タモリが上京して初めて芸を披露した場面にも立ち会っている。

のちに所属したフジオプロでは、アイデアマン・作画などを担当し、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』『ギャグゲリラ』など主要作品の全てに関わる。また、赤塚のアメリカ取材(『MAD』編集部への往訪)や赤塚が企画した写真漫画(『週刊少年サンデー』掲載。アクターとして出演)にも携わった。

文章を書かない赤塚に代わりゴーストライターとして赤塚名義で発表した原稿も多い。週刊少年ジャンプ誌の赤塚賞、週刊少年サンデー誌の新人コミック大賞の選考も、赤塚が体調を崩していた頃(1986年)、その代理として担当していた。『ライブ・イン・ハトヤ』や『ウナギイヌ合唱隊』など、赤塚が漫画以外の活動をした時も常に共に行動するなど一心同体の存在だった。

フジオ・プロのマネージャーなども務めた横山孝雄と共に、デビュー前からの赤塚の同人仲間でもあり、二人はフジオプロ内では赤塚と対等以上に付き合える数少ない存在でもあった。

90年代の独立以降は、漫画家として創作活動をするよりも、主に講師として後進の指導や、漫画評論家としての講演を行っていた。このため、同時代の漫画事情に同年代の漫画家よりも詳しかった。また2006年4月からは、アートアンドスポーツ専門学校が新設した小説・シナリオ科の大衆文藝演習の講師も務めていた。
経歴・生涯

東京府東京市葛飾区(現:東京都葛飾区金町)に生まれ育つ。少年時代は『漫画少年』に投稿。手塚治虫選考の『漫画教室』に投稿した4コマ漫画が2点同時に掲載されたのが初入選だった[2]

やがて投稿仲間の石森章太郎が主宰する東日本漫画研究会の同人となり、肉筆回覧同人誌『墨汁一滴』の執筆陣に加わる。石森や赤塚不二夫らが住む豊島区椎名町トキワ荘に出入りしていたため、新漫画党員ではないが広義の「トキワ荘メンバー」に含める場合がある。同じ東日本漫画研究会員で、トキワ荘に入居または出入りしていたメンバーには、横田とくお横山孝雄高井研一郎山内ジョージなどがいた。

1955年の高校三年の夏休みに、東京の小松川で就職をしていた赤塚不二夫と共に、上京してきた石森章太郎を出迎えて、三人で初めて手塚治虫のいた並木ハウスを訪ねた。翌日、石森と二人で初めてトキワ荘を訪れ、寺田ヒロオ藤本弘(藤子・F・不二雄)安孫子素雄(藤子不二雄A)の三人とも対面する。

同年、『漫画少年』の廃刊の知らせを受けて、赤塚と二人で学童社の編集部を訪ねる。そこで次号が出ていれば、寺田ヒロオ選考の『漫画つうしんぼ』への投稿が入選していた事実を知り怒りに打ち震えた[2]。石森の『二級天使』の原稿を回収。自身の入選作は『墨汁一滴』に掲載した。

東京都立芝商業高等学校を卒業後、塩野義製薬に就職したが、結核の兆候が発見されたため、入社3ヶ月で退職。餞別に抗結核薬のパラアミノサリチル酸カルシウム顆粒の大瓶を貰う。

退職したあとは漫画一本の生活に入る。デビューは若木書房の『爆発五分前』。3冊目からは曙出版を中心に貸本マンガ1964年まで約7年間執筆した。この時期、徳南晴一郎の仕事を手伝ったこともある。

1957年、SF小説同人誌宇宙塵が創刊されると連絡をとり、星新一光瀬龍らの同人と交流を持った。また主宰の柴野拓美の勧めで同誌において初めて短編小説『石段』を発表する。手塚治虫も参加した日本SF大会の第一回からの参加者でもあり、石森章太郎にも参加するように呼びかけた。

1965年、トキワ荘グループが創立したアニメ企画会社スタジオゼロに藤子・石森に請われて入社する。同社雑誌部のチーフアシスタントになり、『オバケのQ太郎』や『レインボー戦隊ロビン』を手掛ける。また、赤塚の『まかせて長太』のアイデア・アシスタントをよこたとくおと務めた。

同年スタジオゼロの新宿十二社の市川ビル移転に伴い、雑誌部は、藤子スタジオ、つのだプロ、赤塚のフジオ・プロダクションに分割される。長谷はフジオプロ所属となった。この時から古谷三敏と二人で、赤塚作品のアイデア・スタッフを務めるようになる。またマネージャー業務、ペン入れ作業なども手伝い始める。この時期、赤塚不二夫にキャラクターを描いてもらった『しびれのスカタン』を、少年画報で連載開始する。

1966年、『おそ松くん』ブームの最中、華書房の依頼により赤塚不二夫名義で『シェー!!の自叙伝―ぼくとおそ松くん』を書き下ろす。これが文章本の初めての書き下ろし仕事となるが、文章が90ページにしかならず、後半は赤塚漫画の収録になった。

1969年、『COM』にパロディ漫画『バカ式』(『ねじ式』と『天才バカボン』の混合)、『ゲゲゲの星』(『ゲゲゲの鬼太郎』と『巨人の星』の混合)などを次々と発表。一連の混合パロディ漫画シリーズは、当時流行っていた漫画評論におけるギャグ漫画軽視や、過剰解釈に対する強烈なメッセージであった。しかし掲載誌の変更に伴い、そういったメッセージ性は減少していった。

またこの年に朝日ソノラマのサンコミックスから筒井康隆原作をもとに長谷邦夫がコミカライズした『東海道戦争』が出版される。

1970年、赤塚不二夫名義で『ニャロメのうた』『ケムンパスでやんす』で初の作詞に挑戦する。この曲はニャロメブームの影響も相俟って、オリコンチャート62位。公称10万枚を売り上げた。つづけて『ココロのシャンソン』など赤塚キャラクターソングの作詞を手掛ける。音楽方面の仕事がきっかけで、藤圭子井上陽水の売り込みの相談を受けたり、山下洋輔と面識を得る。


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