長谷川 雪旦
本名後藤 茂右衛門 [1]
誕生日1778年
出生地 日本 江戸
死没年
1843年2月26日(1843-02-26)(享年66、満64歳もしくは65歳没)
死没地 日本
墓地妙祐山幸龍寺(東京都世田谷区北烏山5-8-1に所在)寺町聖苑 長谷川氏代々之墓
国籍 日本
芸術分野日本画、漢画
長谷川 雪旦(はせがわ せったん、安永7年〈1778年〉- 天保14年1月28日〈1843年2月26日〉)は、江戸時代後期の日本の絵師。本名は 後藤 茂右衛門(読み:ごとう しげえもん[2]、もしくは、- もえもん[3])[4]。氏姓は後藤を名乗る[4][2][5][6]が、本姓は金沢である[4]可能性が高い[7]。画姓は長谷川を名乗る[2]。名は宗秀(むねひで)[2][5][6]。通称は、後藤 右衛門(ごとう うえもん)[8]、茂右衛門(読み:しげえもん[2]、もしくは、もえもん[5])[6]、長之助[2][6](ちょうのすけ)。画号は、雪旦のほか、一陽庵(いちようあん)・巌岳斎(がんがくさい)・岩岳斎・嵒岳斎が知られている[2][8][5][3][6]。俳号は五楽[2][8][6](読み:ごがく、もしくは、ごらく [字引 1])。著名な親族としては子の長谷川雪堤(絵師)がいる。
『江戸名所図会』(1834-1836年刊)[2][3]・『東都歳事記』(1838年刊)[2][3]の挿図絵師として、また、唐津藩および尾張藩[7]の御用絵師として知られる。 長谷川雪旦 『魚類譜』より「'"`UNIQ--templatestyles-00000023-QINU`"'海獺(かいだつ) アシカ」[9]/文政5年と文政13年(1822年と1830年。江戸時代後期中葉)の作。大きいほうは肥前国松浦郡唐房村(現・佐賀県唐津市唐房)[注 1][gm 1]の海辺に漂着した死体を写生・解剖したもので[9]、ニホンアシカの牡[注 2]と推定される。小さいほうは肥前国長崎湊(現在の長崎港の原初的一角、長崎市出島町近辺)[gm 2]にて鉄砲で撃ち獲られた個体を写生したもので、種は特定できない。これらは本草学的視点で記されており、史料としては元より博物学的価値も高い。雪旦は江戸の人であるが、御用絵師として各地で機会を得ては生物・名所・風俗などを精力的に描き留めた。そういった姿勢が挿図を担当した代表作『江戸名所図会』に繋がっている。上の2図は唐津藩の御用絵師として唐津城下に滞在していた時代のものである[9]。 唐津藩士の子[7]で、江戸出身[5]。住居は江戸・下谷三枚橋(現在の東京都台東区上野の仲御徒町駅付近[10])[2][3][6]。国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」という大量の下絵や模写が一括して保存されており[6]、それらの研究により、雪舟13代を名乗る絵師・長谷川雪嶺を師としたことが確認されている[6]。その模写には師・雪嶺や雪舟の作品が複数存在しているが、それに留まらず琳派風・円山四条派風の図や、伝統的な仏画等も含まれており、雪旦が早い段階から様々な流派の絵をこだわりなく学んでいたことがわかる。
略歴