長谷川 雪堤
誕生日1813年2月頃 [注 1]
出生地 日本 江戸 [1]
死没年
1882年3月15日(1882-03-15)[1](享年70、満69歳没)
死没地 日本
墓地妙祐山幸龍寺(東京都世田谷区北烏山5-8-1に所在)寺町聖苑 長谷川氏代々之墓
国籍 日本
芸術分野日本画、漢画
長谷川 雪堤(はせがわ せってい、文化10年1月〈1813年の2月頃[注 1]〉- 明治15年〈1882年〉3月15日)は、江戸時代後期後半[注 2]から明治時代初期にかけての日本の絵師。氏姓は後藤を名乗る[1]が、本姓は金沢である可能性が高い。画姓は父に倣って長谷川を名乗る。名は宗一。画号は、雪堤のほか、雪江(せっこう)・梅紅・松斎(しょうさい)・巌松斎・雪汀がある[1][4]。長谷川雪旦の長男[1]。弟子に長谷川雪塘などがいる。 江戸出身[1]。文政2年(1819年)生まれともいわれる[1]が、誤りと考えられる。早くから父・雪旦に学び、粉本類には父子で模写したものが多く見られる。父譲りの技量を発揮し、名所絵や人物画を多く残した。なかでも、天保10年(1839年)刊行の地誌『相中留恩記略』で挿図を担当したことは、父が『江戸名所図会』の挿図を担当して名を成したのと同様、名所絵師としての雪堤の名を高めた。 また、尾張藩の「藩士名寄」(※藩士の務め書)に名は無いものの、同藩の同朋格として遇されたという[5]。 父・雪旦が天保14年(1843年)に死去してのちは、画業もやや精彩を欠いた。1882年(明治15年)3月15日に死去。享年70、満年齢69歳であった。父と同じく当時は浅草新谷町(のちの浅草芝崎町。現在の東京都台東区西浅草3丁目)にあった妙祐山幸龍寺に葬られた。その後、寺は関東大震災で罹災・焼失し、昭和初期になってから墓地ともども世田谷区北烏山へ移転している。 弟子としては、師と同じく唐津藩御用絵師を務めて明治時代以降も唐津で活動した長谷川雪塘がいる。また、娘の長谷川雪真(本名・志奈子)も絵師であるが、画歴は詳しく分からない。「親族と一門」節も参照のこと。 父・雪旦とともに名所図会の挿図を数多く手掛けたことで知られ、板本類(摺物)の遺作は多い[6]。一方で、肉筆画はあまり残されていない[6]。 『相中留恩記略(そうちゅう りゅうおん きりゃく)』 [2]天保10年(1839年)刊行[3]。
略歴
主要作品
摺物
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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