長谷川等伯
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 凡例長谷川 等伯
時代安土桃山時代から江戸時代初期
生誕天文8年(1539年
能登国七尾(現石川県七尾市
死没慶長15年2月24日1610年3月19日
改名又四郎(幼名)→帯刀→信春
墓所本法寺
主君畠山氏
氏族奥村氏
父母父:奥村文之丞宗道
妻妙浄、妙清
久蔵、宗宅、左近、宗也
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長谷川 等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日1610年3月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。狩野永徳海北友松雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。

能登国七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。
生涯『日蓮聖人像』(大法寺蔵)
七尾時代

天文8年(1539年)、能登国七尾(現・石川県七尾市)に能登国の戦国大名畠山氏に仕える下級家臣の奥村文之丞宗道の子として生まれる[1]。幼名を又四郎、のち帯刀と称した。幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を介して、同じ染物屋を営む長谷川宗清(宗浄)の養子となった。宗清は雪舟の弟子である等春[注釈 1]の門人として仏画などを描き、養祖父や養父の仏画作品も現存している。等伯は等春から直接絵を習ったことはないと考えられるが、『等伯画説』の画系図では自分の師と位置づけており、信春の「春」や等伯の「等」の字は、等春から取ったものと考えられる。

等伯は10代後半頃から宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを受けていたと考えられ、養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画や肖像画などを描き始めた。当時は長谷川信春と名乗っていた。現在確認されている最初期の作は、永禄7年(1564年)26歳筆の落款のあるものだが、その完成度は極めて高い。この時代の作品に、生家の菩提寺である本延寺に彩色寄進した木造『日蓮上人坐像』(1564年、本延寺蔵)[3]、『十二天図』(1564年、正覚寺蔵)、『涅槃図』(1568年、妙成寺蔵)などがあり、現在能登を中心に石川県富山県などで10数点が確認されている。

当時の七尾は和学でも知られる畠山義総が支配し、義総を頼って京都から公卿や歌人、連歌師、禅僧などが下向したことで「畠山文化」が開花したとされ、等伯はそのような文化的環境で育ったといわれている[4]。等伯の作品には都でもあまり見られないほど良質の顔料が使われている。一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。等伯は何度か京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学んでいたと考えられる。
上洛、雌伏の時代

元亀2年(1571年)等伯33歳の頃、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛[注釈 2]、郷里の菩提寺・本延寺の本山本法寺を頼り、そこの塔頭教行院に寄宿した。翌元亀3年(1572年)には、この年に30歳で死去した本法寺八世住職日堯の肖像画『日堯上人像』を描いている。

天正17年(1589年)まで等伯に関する史料は残っていないが、最初は当時の主流だった狩野派狩野松栄の門で学ぶもののすぐに辞め、京都と堺を往復して、堺出身の千利休日通らと交流を結んだ。狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの時代の中国絵画に触れ、牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た[6]。それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していったのもこの頃である。この頃も信春号を用いており、『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)、『武田信玄像』(成慶院蔵)、『伝名和長年像』(東京国立博物館蔵)など優れた作品を残しており、天正11年(1583年)には大徳寺頭塔である総見院に『山水、猿猴、芦雁図』(現存せず)を描いたという記録が残っており、利休らを通じて大徳寺などの大きな仕事を受けるようになったという[7]。天正14年(1586年)、豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに揮毫している[8]。『本朝画史』には、狩野派を妬んだ等伯が、元々狩野氏と親しくなかった利休と交わりを結び、狩野永徳を謗ったという逸話が載っている。『本朝画史』は1世紀後の、等伯のライバルだった狩野派の著作なので、信憑性にやや疑問が残るが、これが江戸時代における一般的な等伯に対する見方であった。
中央画壇での活躍

天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。天正18年(1590年)、前田玄以山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳狩野光信勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された[9]。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。

《松林図屏風》左隻、国宝、東京国立博物館

《松林図屏風》右隻、国宝、東京国立博物館

楓図(旧祥雲寺障壁画のうち)智積院

松に秋草図(旧祥雲寺障壁画のうち)智積院


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