長谷川滋利
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長谷川 滋利
Shigetoshi Hasegawa基本情報
国籍
日本
出身地兵庫県加古川市
生年月日 (1968-08-01) 1968年8月1日(55歳)
身長
体重180 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1990年 ドラフト1位
初出場NPB / 1991年4月11日
MLB / 1997年4月5日
最終出場NPB / 1996年10月23日
MLB / 2005年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


東洋大学附属姫路高等学校

立命館大学

オリックス・ブルーウェーブ (1991 - 1996)

アナハイム・エンゼルス (1997 - 2001)

シアトル・マリナーズ (2002 - 2005)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

長谷川 滋利
YouTube
チャンネル

Shigetoshi Hasegawa

活動期間2011年 -
ジャンル野球
登録者数473人
総再生回数284,926回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年10月7日時点。
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長谷川 滋利(はせがわ しげとし、1968年8月1日 - )は、兵庫県加古川市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者2016年11月1日からは、オリックス・バファローズのシニアアドバイザー(SA)を務める。

2019年から米国でプロゴルファーとして活動を開始し、現在日本のPGAプロ資格を取得すべく、プロテストに挑戦中である[1]

オリックス・ブルーウェーブに所属していた日本プロ野球(以下:NPB)の現役投手時代のニックネームは「シゲ」、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)でのニックネームは「シギー」。

MLBでは主にリリーフとして9シーズンにわたり活躍し、日本人最多記録となる通算517試合に登板した[2]
経歴
プロ入り前

高砂市加古川市組合立宝殿中学校に在籍時、投手として第5回全国中学校軟式野球大会で優勝。東洋大姫路高校では2年春2年夏3年夏甲子園出場。41年ぶりに再開された立命館大学スポーツ推薦を受けて経営学部に進学し、在学時は関西学生野球連盟で5度最優秀投手の表彰を受け通算40勝。1回生のときには古田敦也が4回生に在籍していた。また、同志社大学に在籍していた杉浦正則と同じ回生で、立同戦が大いに盛り上がった。

1990年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブの1位指名を受け入団。入団時の背番号は17。
オリックス時代

1991年には、4月11日の対西武ライオンズ戦(グリーンスタジアム神戸)で、先発投手として公式戦にデビュー。9回を完投したものの、4失点で黒星が付いた。この試合から6連敗を喫したものの、6月5日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で先発したところ、9回1失点の完投で初勝利。7月に開催されたジュニアオールスターゲームでも、ウエスタン・リーグ選抜チームの先発で好投したことから、試合後に最優秀投手賞を授与された。さらに、レギュラーシーズンの後半戦で白星を積み重ねた結果、12勝9敗という好成績でパ・リーグ最優秀新人賞に選ばれた。

1992年には、前年に続いて、レギュラーシーズンの開幕を先発ローテーションの一角で迎えた。開幕後は調子が上がらず、中盤には救援に回された[3]。後半から先発に復帰すると、パ・リーグの最終規定投球回へ到達。しかし、打線の援護に恵まない試合が相次いだこともあって、シーズン通算では6勝8敗と負け越した。

1993年から先発ローテーションに再び定着すると、1995年まで3年連続で2桁勝利をマーク。11勝を挙げた1994年には、パ・リーグ最多の3完封勝利も記録した。1995年には、12勝、防御率2.89という好成績でチームのパ・リーグ初優勝に貢献したほか、オールスターゲームにも出場した。

その一方で、1993年からは契約更改のたびに、将来メジャーリーグ(MLB)へ挑戦する意向があることを球団側に伝達。1995年1月13日の契約更改では、年俸の大幅な増額(前年から5,500万円増の推定7,500万円)を勝ち取ったばかりか、球団代表の井箟重慶(当時)から「来年(1996年)MLBに行かせる」という確約を得た。実際にはこの確約どおりに事が運ばず、長谷川は1996年もチームに残留したが、球団ではMLB球団との間で長谷川のトレードを模索[4]。長谷川は、成績こそ4勝6敗1セーブにとどまったものの、チームのパ・リーグ2連覇と日本シリーズ初制覇に貢献した。
エンゼルス時代

前述した事情から、エド・クラビン代理人に立てたうえで、1997年1月に金銭トレードでアナハイム・エンゼルスに移籍した[5]。推定年俸57万ドルの1年契約で、日本人のプロ野球選手が金銭トレードでMLBの球団に移籍した事例は、この時の長谷川が初めてである。

1997年4月5日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー初先発NPBでもプレーしたフリオ・フランコケビン・ミッチェルらを下位打線に擁するインディアンス打線に捕まり、5回9番サンディー・アロマーに本塁打、4番マット・ウィリアムスに二塁打を打たれるなど、4.1回を4失点で敗戦投手となるなどメジャーの洗礼を浴びた。15日のニューヨーク・ヤンキース戦の8回にリリーフ登板し、メジャー初勝利を挙げる。この時の帽子アメリカ野球殿堂に飾られた。その後計4試合に先発したが0勝2敗、防御率7.10、WHIP1.73と結果を残せず、5月中旬からはリリーフに専念。リリーフとしては25試合に登板し1勝2敗、防御率3.04、WHIP1.24の成績で前半戦を折り返した。8月18日のロサンゼルス・ドジャース戦では野茂英雄と、20日のヤンキース戦では伊良部秀輝との対決もあった。9月7日のデトロイト・タイガース戦では延長12回から登板し、4回を1安打無失点8奪三振の好投で3勝目を挙げ、村上雅則の日本人メジャー最多登板数45を更新した。16日のミネソタ・ツインズ戦以降の3試合で再び先発登板したが、0勝1敗、防御率6.00、WHIP1.73と結果を残せなかったが、リリーフとしては後半戦も18試合の登板で2勝2敗、防御率2.54、WHIP1.30と好投した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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