長谷川海太郎
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「谷譲次」はこの項目へ転送されています。俳優の「谷譲二」とは別人です。

長谷川 海太郎
(はせがわ かいたろう)
長谷川海太郎(1930年頃)
ペンネーム林 不忘(はやし ふぼう)
牧 逸馬(まき いつま)
谷 譲次(たに じょうじ)
誕生長谷川 海太郎 (はせがわ かいたろう)
1900年1月17日
日本 新潟県佐渡郡赤泊村
死没 (1935-06-29) 1935年6月29日(35歳没)
神奈川県鎌倉市
墓地妙本寺
職業小説家
翻訳家
国籍 日本
最終学歴明治大学専門部法学科卒業
活動期間1925年 - 1935年
ジャンル時代小説
推理小説
翻訳
文学活動『めりけんじゃっぷ』シリーズ
丹下左膳』シリーズ
代表作『めりけんじゃっぷ商売往来』(1927年)
テキサス無宿』(1929年)
『踊る地平線』(1929年)
『丹下左膳』(1933年)
デビュー作『ヤング東郷』(1925年)
親族長谷川淑夫(父・ジャーナリスト)
長谷川?二郎(弟・画家、作家)
長谷川濬(弟・ロシア文学者)
長谷川四郎(弟・作家)
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長谷川 海太郎(はせがわ かいたろう、1900年1月17日 - 1935年6月29日)は、日本小説家翻訳家

林不忘(はやし ふぼう)、牧逸馬(まき いつま)、谷譲次(たに じょうじ)の3つのペンネームを使い分けて活躍した。林不忘は時代小説「丹下左膳」シリーズ、牧逸馬は犯罪実録小説、家庭小説、翻訳、谷譲次は米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られる。
生涯
生い立ち

幕府の金座役人を祖父に持ち、新潟県立佐渡中学で英語教師をし、後にジャーナリストとして活躍する長谷川清(のちに改名した長谷川淑夫の名前で知られる。楽天、あるいは世民とも号した)の長男として新潟県佐渡郡赤泊村(現:佐渡市赤泊)に生まれる。父清は佐渡中学の寄宿舎の舎監も務めており[1]、当時佐渡中学に在学していた北一輝にも感化を及ぼし、鈴木重嶺門下の清楽社同人として和歌を新潟新聞に寄稿していたが、海太郎が1歳のとき、北海新聞主筆に招かれ、のちに犬養木堂の依頼で函館新聞の主筆となる父に従って一家で函館に移住。同地の弥生小学校に通い、当時皇太子の北海道巡啓に際しては海太郎の作文が台覧に供せられた。やがて北海道庁立函館中学校(現函館中部高校)に入学、当時の函館は国際色豊かな港町であり、海外への憧れを抱き成長したという。父は子供の頃から海太郎に英語を教え、また徳富蘆花「順礼紀行」を愛読した。中学3年頃から石川啄木に傾倒、白楊詩社という文芸グループに参加し作詩に励み、4年の時には野球の応援団長として活躍した。

函館中学で5年生一同が運動部長排斥からストライキを起こし、五稜郭に籠城する事態にまでなり、首謀者とされた海太郎は卒業試験で落第処分となり、退校して上京し、明治大学専門部法科に入学する。大学時代は英語・日本語の本を読み漁り、歌やエッセイを函館新聞の文芸欄に送り、大杉栄の家にも出入りしていた[2][3]。。明治大学専門部卒業後、勉強のために父親が旅費を工面して、1920年に太平洋航路の香取丸で渡米し、オハイオ州オベリン大学に入学するが、同年11月に退学、様々な職種を転々としながら全米を放浪する。またIWW(世界産業労働組合)で組合活動も行っていた[2]

1924年には貨物船の船員として南米からオーストラリア、香港を経て、大連に寄港し、そこで下船して朝鮮経由で帰国した。再度渡米を予定していたが、移民法の改正があってアメリカ大使館からビザが降りなくなった。
流行作家となる大河内伝次郎主演による丹下左膳(1933年,第一編)

帰国後は松本泰主宰『探偵文芸』に参加し、森下雨村を知る。東京では弟の?二郎のいる下宿に住んだが、函館新聞に阿多羅猪児のペンネームで、アメリカの話題のコラム風「納涼台」などを連載、田野郎、迂名気迷子などのペンネームでも作品を掲載した。同じ下宿にいた函館時代の友人水谷準の紹介で[注 1]、1925年に『新青年』に谷譲次名で「海外印象詩」、続いて「ヤング東郷」「ところどころ」などの、滞米中の実体験に基づき、アメリカで生きる日本人(日系人)単純労働者の生き方をユーモラスに描いた「めりけんじゃっぷ」ものを掲載し始め、また牧逸馬名でコラム「海外探偵片聞」、オルチー夫人「謎の貴族」などの翻訳を掲載。続いて『探偵文芸』に林不忘名で時代物「釘抜藤吉捕物覚書」、『探偵趣味』『苦楽』誌などに、メリケンもの、現代探偵小説を発表し始める。当時刊行中の平凡社『現代大衆文学全集』35巻の「探偵小説 新人作家集」にも「釘抜藤吉捕物覚書」が5編が収録された。

松本泰の英語の翻訳研究グループで香取和子と知り合い、1927年に結婚。鎌倉向福寺の一室を借りて新生活を始める。当初和子は生活のために、鎌倉高等女学校で教鞭も取った。しかしこの年に嶋中雄作に認められて、『中央公論』に「もだん・でかめろん」を連載し、一躍人気作家となる。『サンデー毎日』『女性』などにも作品を発表し、千葉亀雄の依頼で東京日日新聞大阪毎日新聞に、林不忘の筆名で時代小説「新版大岡政談」(後に「丹下左膳」)の連載を開始する。片目片腕のニヒルな剣豪ヒーロー丹下左膳の冒険談はたちまち人気小説となり、早くも連載中の1928年には最初の映画化がなされた。

この「新版大岡政談」の映画化は、東亜キネマ團徳麿)、マキノ・プロダクション嵐長三郎)、日活大河内伝次郎)の3社競作となる過熱ぶりで、中でも日活の伊藤大輔監督の『新版大岡政談(第一篇)(第二篇)(解決篇)』は、1928年キネマ旬報ベストテン3位になるなど評価も高く、大河内の「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」という独特の台詞回しとともに強い印象を与えた[5]

また1928年から1年超にわたって、中央公論社特派員の名目で夫婦で、釜山からシベリア鉄道を経てヨーロッパ14か国を訪問し、その旅行記は谷譲次名の「新世界巡礼」として同誌に連載された(単行本化時に「踊る地平線」)。この時夫人の和子も『婦人公論』にロンドンパリの滞在記を掲載している。

ロンドン滞在時には、第一次世界大戦後のヨーロッパにおけるノンフィクションの流行に触発され[6]、古本屋で犯罪者の資料を買い漁り、1929年から33年にかけて『中央公論』に「世界怪奇実話」を牧逸馬名で連載。その後も牧逸馬名では、欧米の犯罪小説、怪奇小説の翻訳・翻案物や海外の怪事件を扱ったノンフィクション、昭和初期の都市風俗小説などを著し、女性読者層にも人気を博した。この中で、タイタニック号沈没事故を描いた一話「運命のSOS」により、海難信号である「SOS」が流行語となり、淡谷のり子(水町昌子)「S・O・S」(1931年)といったレコードも発売された[7]。帰国後は帝国ホテルに缶詰めとなったが、1929年に鎌倉材木座に移る。この頃中央公論社で出版部を新設するにあたり、嶋中雄作はその責任者を長谷川に打診したが執筆多忙のため叶わなかった。また1930年に『婦人公論』に掲載したエッセイ「貞操のアメリカ化を排す」の末尾部分を作者に無断で削除するという事件があり、これに激怒して以後同誌への執筆はほとんど無くなった。
執筆生活

1931年に翻訳したヴィニア・デルマー(英語版)の小説『バッド・ガール』は、水の江瀧子が使って流行語となっていた「キミ、僕」を会話に使い、その映画版『バッド・ガール』も同年公開され、当時のモダンガールのブームに乗って大きく喧伝されて、その主題歌がコロムビアビクターでレコード化された[7]


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