長谷川 泰子(はせがわ やすこ、1904年5月13日 - 1993年4月11日)は、日本の女優。戦前の芸名は、陸礼子。複数の著名な文化人・文学者との恋愛や交遊関係があり、文学史に名を残す。中原中也、小林秀雄 (批評家)との三角関係で知られる。 広島市出身。英和女学校(現・広島女学院)卒業。女優を志し[1]、京都、東京へと移る。成瀬無極が主宰する劇団表現座、マキノ映画製作所、松竹キネマで女優となる。この間、中原中也、小林秀雄と同棲し、山川幸世の子を生んだ[2]。 陸礼子の芸名で、清水宏監督の『山彦』に出演。本名で岩佐寿弥監督『眠れ蜜』に主演した。口述だが、著書に『ゆきてかへらぬ?中原中也との愛』(講談社、1974年)がある。永井叔の自叙伝には清水谷八枝子として登場する。彼女を中也に紹介したのは永井である。身長1m62cm[3]。
人物
年譜
1904年5月、誕生。
1911年6月、父親の死去とともに母親とも別居、祖母に育てられる。
1923年8月、家出し、広島で放浪中の永井叔と知り合い、一緒に上京するも関東大震災により京都へ。劇団表現座を経てマキノ映画制作所に入社。永井を通じて中原中也と知り合う。
1924年4月、京都で中原中也と同棲生活[2]。
1925年3月、中原中也とともに上京。9月、富永太郎を通じて小林秀雄と知り合い、11月より同棲[2]。佐規子と改名。
1928年5月、泰子の潔癖症に悩まされ、同棲生活に疲れた小林秀雄が泰子のもとを出奔し別れる。泰子の潔癖症は相手を執拗に言葉で責めることを伴うものだが、「愛情を確かめるための甘えだった」とのちに語っている[4]。9月、松竹キネマ蒲田撮影所に入社。清水宏監督の映画「山彦」に陸礼子の芸名で出演[5]。
1929年、中也も関わっていた同人誌「白痴群」第3号に小林佐規子の名で詩3篇、第4号に散文詩「秋の野菜スープ」を発表[6]。
1930年12月、演出家の山川幸世と飲み屋で知り合い、望まぬ妊娠で子供がうまれ、中原中也が茂樹と命名[2]。
1931年、時事新報社内の東京名画鑑賞会が主催した「グレタ・ガルボに似た女性」に当選[1]。中也の紹介で青山二郎と知り合う。
1932年、青山の紹介で銀座のバーなどに勤める。
1936年、実業家(石炭商)の中垣竹之助と結婚[7]。茂樹も中垣の子として入籍。田園調布で優雅な生活を送るも潔癖症が再発する。
1937年12月24日、中原中也の告別式に参列[7]。
1939年、中垣が出資し、中原中也賞を創設。
1945年、終戦で夫の事業が行き詰まり別居。12月、世界救世教に入信。このころ、知人宅を回って金を都合してもらったり、横浜で岩海苔取りの手伝いをして糊口を凌いでいた[8]。
1959年、救世教本部のある静岡県熱海市に転居。
1961年、東京に戻り、日本橋でビルの管理人となる。12年ほど務めたが、その間、「中也を捨てた女」として中也ファンが恫喝に訪れ逮捕される事件も起こった。
1974年、村上護の聞き書きによる『ゆきてかへらぬ?中原中也との愛』(講談社)刊行。
1976年、ドキュメンタリーを織り交ぜた岩佐寿弥監督の実験映画『眠れ蜜』(シネマ・ネサンス)に長谷川泰子として出演[9]。
1993年4月、老人ホームで死去。88歳。
著書
『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』村上護編 講談社 1974
『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』角川ソフィア文庫 2006
出典^ a b ⇒中原中也との愛 - 長谷川泰子 掲載プロフィール
^ a b c d ⇒中原中也記念館 中也の生涯
^ 汚れちまった悲しみに今日も小雪の降りかかる
^ 「ゆきてかへらぬ」中原中也と長谷川泰子朝日新聞、2007年08月04日
^ ⇒日本映画データベース 山彦
^ ⇒近代雑誌複刻資料 その他 白痴群T
^ a b 『ゆきてかへらぬ?中原中也との愛』(講談社、1974年)
^ 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)
^ 眠れ蜜 - MOVIE WALKER PRESS
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