長谷川才次
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長谷川 才次(はせがわ さいじ、1903年明治36年)10月1日 - 1978年昭和53年)3月10日)は、時事通信社の初代代表取締役。時事画報社、内外ニュースの創業者。善本社会長。勲一等瑞宝章受章。

同盟通信社在職中から記者として活動し、戦後は保守系言論人としても活動した。1945年の時事通信社創業以来、四半世紀余りにわたって同社を率いたが、労使対立を招いた責任を取って1971年に辞任した。
若年期

青森県青森市質屋業を営む家に、男3人、女4人のきょうだいの3男として生まれた。父は三井銀行(のち第五十九銀行に転職)に務める銀行員であったが、男子のいない長谷川家に婿養子として入り、質屋業を継いだ。

長谷川は小学校時代から秀才で知られたほか、少年野球では二塁手として活躍した。

1916年合浦公園の西に位置する青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に進学。英語が好きで、3年の頃から登下校時には『熟語本位英和中辞典』を読みながら歩いた。また、父から『十八史略』や四書を読まされ、自らも読書をよくした。こうした経験が、英語や歴史漢学の教養を深めていった。

中学時代の4年間を首席で通した長谷川は、第一高等学校文科甲類を受験するも失敗。併願していた文科丙類には合格したが、甲類が諦められなかった長谷川は、神田錦町の日土講習会で勉強し、翌年文科甲類へ進学した。中寮十番で同室となった武藤富男(のちの明治学院大学院長)は、終生の友人となった。

入学後は英語の書物を読み漁ったほか、フランス語ドイツ語ラテン語などの習得にも励んだ。殊に英語は、語源にまで遡って意味を調べるほどの熱の入れようであった。

1924年東京帝国大学法学部に進学。在学中に寄宿した寮では、矢部貞治(のちの拓殖大学総長)と同室となった。しかし、これまでの揺り返しであるかのように勉強に身が入らなくなった長谷川は、「試験を受けずに、ふらふらして」過ごし、3年で卒業するはずのところを1年留年した。何度も中退を考えたが、高校時代の恩師に諭されて思い留まった。

例外的に、田中耕太郎の講義は長谷川の関心を惹いた。カトリック教徒であった田中の講義には、キリスト教的世界観が反映されていたからという。この頃長谷川は、郷里青森のカトリック教会で洗礼を受けている。
記者生活
通信社へ

帝大を卒業後、実家近くの呉服屋の5女と結婚した長谷川は、郷里の青森で暮らしていた。未だ就職先が決まっておらず、このままではいけないと猛勉強を始めた矢先、この地を訪れた岩永裕吉新聞聯合社専務)に出会った。岩永と意気投合した長谷川は、聯合への入社を決めた。洗足に家を借りて妻と暮らしたが、家賃は聯合での初任給と同じ30円であったため、しばらくは親の援助に頼らねばならなかった。

外信部に配属された長谷川は、外信局長古野伊之助及び外信部長相良左の下で、業務の習熟に務めた。

「辞書を引くのを見たことがない」と同僚に言わしめた長谷川の英語力は、外信部で遺憾なく発揮された。満州事変に関する調査をしていたリットン調査団が最終報告を作成した際には、報告の内容を伝えるAP電を届いたそばから和訳して読み上げ、部下に書き取らせた。出来上がった訳文は素晴らしく、添削の赤ペンを入れられることなく直ちに各新聞社に送られたという。
同盟人として

日本電報通信社(電通)の後塵を拝していた聯合はこの頃、「一国一通信社」の主張を掲げ、軍部を動かして電通の吸収を図っていた。聯合は同盟通信社(以下「同盟」)に改組し、電通の通信部を合併させることに成功した。この新会社で長谷川は、外信部長に就任した。

1937年6月、長谷川はロンドン支局長の辞令を受けた。ただし、すぐにロンドンへは向かわず上海支社や米国を視察した後、フリート街ロイター本社ビル内にあった、同盟のロンドン支局へ赴任した。

長谷川がロンドン入りした1937年は、第二次世界大戦直前の激動の時代であった。ナチス・ドイツによるオーストリアの併合(アンシュルス)、独軍のポーランド侵攻、独軍によるイギリス本土空襲(バトル・オブ・ブリテン)といった重大事件を、長谷川はロンドンの地で報じた。長谷川は東京本社時代、事件があると各支局へ指令の電報を発していたが、ロンドン赴任後は逆に、支局長でありながらしばしば東京本社へ指令電を打った。

1941年12月8日、日本が米英へ宣戦を布告すると、イギリスは直ちに在留邦人をマン島へ抑留した。マン島には、イタリア人ルーマニア人、ハンガリー人などの敵国人が集められ、現地の安ホテル数百軒に入って抑留生活を送った。長谷川は第26番館長を任され、待遇改善などの折衝に当たった。

将校の管制下に置かれた収容所での生活は不自由が多く、週2回の散歩やラジオの聴取こそ認められていたものの、厳しい寒さや栄養不足に悩まされた。しかし抑留から半年余りのちの1942年7月16日、司令部から帰還命令が下り、9月27日に横浜港にたどり着いた。

1945年8月の終戦時には、陸軍省の意向を無視して日本のポツダム宣言受諾の第一報を打電した。

8月10日午前3時に天皇が下したポツダム宣言受諾の方針は、内閣書記官長迫水久常を通じて長谷川に伝えられた。「日本政府の終戦についての方針はポツダム宣言を受諾することにきまっているが、手続きのうえでひどくてまどっていて、回答が遅れているという旨を流してほしい」という迫水の依頼を受けた長谷川は、海外向け放送でこれを報じた。すると、欧米メディアから日本への放送が直ちに返ってきたため、これを傍受した陸軍内部は大騒ぎとなった。

大本営の報道部は同日夕刻、徹底抗戦を主張する陸軍大臣布告を発した。迫水や長谷川のもとには陸軍将校らが押しかけ、なぜあのような放送をしたのかと問い詰めたが、両名は共に知らぬ顔を決め込んで事無きを得た。
時事経営
同盟解散

第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を司るGHQダグラス・マッカーサーは9月14日、駐留米兵による民間人への暴行事件を同盟が幾度も報じていることを聞かされた。マッカーサーは「同盟を閉鎖せよ」と命じ、翌9月15日には、GHQの新聞課が同盟の業務停止命令を発した。同盟からのニュースの供給停止で報道業界が大混乱を来たしたことから、命令は翌日正午に急遽取り消されたが、外国向けの電信同報をなおも禁じられるなど、同盟への圧力は強まりつつあった。

9月24日、長谷川はGHQが「政府から独立した新聞通信社の設立を許す。それこそが言論自由の大道である」との声明を翌日の各朝刊に掲載させるという情報を入手した。この声明は裏を返せば、政府と密接に関係している報道機関の存在意義を認めないという、GHQの意思表示である。「国策通信社」同盟が完全に解体される可能性が、にわかに高まった。

長谷川の報告を受けた同盟社長の古野伊之助は、長谷川を連れて直ちにGHQに向かった。担当官のフーヴァー大佐に向かって古野は、同盟を自発的に解散すると表明したのである。GHQの手で解体される前に機先を制して「擬装解散」をしてしまうという、巧妙な策であった。予想外の申し出に、フーヴァーはしばらく言葉を失ったという。
第二通信社

この翌週に開催された同盟の第33回理事会の席上、古野は新通信社「共同通信社」の設立を宣言した。

「新通信社は『共同通信社』という名称の下に社団法人組織で、『同盟』と同じ新聞組合主義によって来月1日から新首脳部、新方針によって仕事をして行く。そして『同盟』で育成された人材が、この新機構運営の中枢にすわって、報道報国の使命を果たして行くことになる」

古野の発言から判るように、栄光ある同盟の衣鉢を継ぐのは、共同通信社であった。対して共同通信社の枠組みから外れた業務、即ち商況・出版を担当する通信社の方は、この時点では正式社名も決まっておらず、「第二通信社」と仮称された。新聞社向けの記事配信こそが通信社の本分であり、商況や出版は「第二」に過ぎなかった。

ある日、長谷川を昼食に誘った古野は、新聞組合を伊藤正徳(同盟の元参与、中部日本新聞社専務)に、経済サービスを長谷川に任せたいと語った。長谷川は一旦は断ったが、「外地に残る2千人近くの同志の生活を見てやれるのは君しかいない」との懇願に負け、不承不承ながらも古野の依頼を受け入れた。しかし、報道局長まで務めた自分が傍流に回されたという現実は容易には受け入れがたく、長谷川の心中には鬱屈した感情が残った。
時事発足市政会館東京都千代田区)。長谷川は3階(共同の退去後は2階)に代表取締役室を置いた

解散表明からわずか1ヵ月後の10月31日、同盟は正式に解散した。翌11月1日、共同通信社(以下「共同」)と時事通信社(以下「時事」)が発足した。

時事は資本金が満足に調達できなかったため、1株50円の株式を長谷川ら12名の発起人が30株ずつ、他の全社員が2株ずつ引き受けて10万円を用意した。しかも保有株式数に関係なく1人1票の議決権を有するという独特な企業形態を採った。また、社長常務といった肩書きは存在せず、代表取締役取締役のみを置いた。


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