長谷川宣以
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例長谷川 宣以
時代江戸時代
生誕延享2年(1745年[注釈 1]
死没寛政7年5月19日[注釈 2]1795年7月5日
改名銕三郎(幼名)、宣以
別名平蔵(通称
戒名海雲院殿光遠日耀居士
墓所東京都新宿区須賀町戒行寺
幕府江戸幕府 西丸書院番、進物番、西丸徒頭先手弓頭火付盗賊改役
氏族長谷川氏
父母父・長谷川宣雄、母・戸村品左衛門の娘?
妻大橋親英の娘
宣義(長男)、正以(二男)、
娘(河野弘道室)、娘(渡辺久泰室)、娘
テンプレートを表示
戒行寺の長谷川平蔵宣以供養之碑。

長谷川 宣以(はせがわ のぶため)は、江戸時代中期の旗本寛政の改革期に火付盗賊改役を務め、人足寄場を創設した。通称は平蔵(へいぞう)。

長谷川平蔵の名は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」[注釈 3]として、日本の時代小説時代劇ファンに知られている。
生涯

延享2年(1745年)[注釈 1]、400旗本である長谷川平蔵宣雄の長男として生まれる。母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には「某氏」と記されているが、研究家の滝川政次郎・釣洋一・西尾忠久は宣雄の領地の農民・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている[注釈 4]

幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)[注釈 5](銕は鉄の異体字)。

明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治御目見し、長谷川家の家督相続人となる。時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英[注釈 6]の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。

青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある[注釈 7]。父の宣雄は小十人頭先手弓頭[注釈 8]を経て安永元年(1772年)10月に京都町奉行の役に就き、宣以も妻子と共に京都に赴く。安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去した。宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」と豪語[注釈 9]して江戸に戻った。同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継いで通称を父と同じ平蔵に改め、小普請組支配長田備中守組に入った。

小普請時代の宣以は、父が貯めた金も使い果たし、遊廓へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられるが、家督を継承した翌年の安永3年(1774年)には400石取りの旗本が幕府の役職に初めて就く場合の一般的なコースである両番(書院番小姓組)への番入りを果たし、西丸書院番(将軍世子の居住する江戸城西ノ丸御殿に配置された書院番)の番士に任ぜられた。翌年には儀礼の場での贈答品を周旋する進物番への出役を命ぜられる[10]

天明4年(1784年)、39歳で徒歩組の指揮官である西丸徒頭[注釈 10]、天明6年(1786年)、41歳で番方(武官)の要職である先手弓頭に任ぜられた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef