はせがわ かずひこ
長谷川 和彦
本名長谷川 和彦(はせがわ かずひこ)
別名義ゴジ
生年月日 (1946-01-05) 1946年1月5日(78歳)
出生地 日本 広島県賀茂郡西高屋村
(現:東広島市)
職業映画監督、脚本家
ジャンルアクション、ドラマ
活動期間1968年 - 現在
配偶者なし(離婚歴あり)
主な作品
『青春の殺人者』
『太陽を盗んだ男』
受賞
毎日映画コンクール
監督賞
1980年『太陽を盗んだ男』ヨコハマ映画祭
作品賞
1980年『太陽を盗んだ男』
監督賞
1980年『太陽を盗んだ男』
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長谷川 和彦(はせがわ かずひこ、1946年1月5日 - )は、日本の映画監督。愛称はゴジ。 広島県賀茂郡西高屋村(現:東広島市)に出生[1]。父は農業協同組合勤務、母は教師で三人兄弟の末弟。1945年8月、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射線を浴び、胎内5ヵ月のため胎内被曝となった[1][2]。4歳からABCC(現・放射線影響研究所)で定期検診を受けた[3]。被曝2世の自分は早死にすると思い、人生を生き急ぐ原因となったとインタビューで語る[4][5]。
経歴
生い立ち
高校3年の夏休みに友人の家に遊びに行ったおり、東映東京撮影所で助監督をしていた友人の兄から高倉健とにぎり飯を食べている写真を見せられ、「健さんとにぎり飯が食える職場なんて、素晴らしい!」という実感とともに「映画って作る人間がいるんだ」と大発見をしたような思いだったという[2]。「どうすれば、お兄さんのような助監督になれますか?」と東映に手紙を送ったら、東映の三角マーク入りの便箋で返事が来て「ともかく大学に行きなさい。それから映画会社の助監督試験を受けなさい」とアドバイスを受け、ようやく目標も出来て、助言通り、そのお兄さんと同じ東京大学文学部英文科に進んだ[2]。
在学中は大学闘争真っ盛りの時期だったがそれには参加せず、ボート部を経て[8]、アメリカンフットボール(アメラグ)に熱中し、フットボール部ではキャプテンにもなった[9]。「麻雀とアメラグだけのノンポリフーテンだった」と話す。英文科に3年在籍、のち映画監督を目指して美学科に変わる。当時はもう映画産業は斜陽で、どの会社も助監督を採用しなくなっていた[2]。 大学に通う傍ら、映画監督との出会いを求めて、夜にはシナリオ研究所で映画監督の浦山桐郎のゼミを受講。浦山から今村昌平の今村プロの助監督試験を紹介されて、合格[2][10][11]。在学5年目の1968年、今村プロに入社。卒論を残すのみだったが、大学は今村の命令で中退[8]。映画『神々の深き欲望』の制作スタッフについて沖縄ロケに参加した[9]。沖縄ロケでの資金枯渇や未払いなど残務処理など今村組での体験によって、今村昌平流の粘る映画作りがすり込まれ、後の日活時代の助監督生活も苦しいと思ったことはないという[12]。 今村プロ時代に24歳で結婚[8]。家賃2万円のボロ家の今村プロ事務所に、管理人夫婦を兼ねて住んだ[13]。相米慎二はそこへ長谷川の妻の女友達のヒモとして転がり込んでそのまま居着き日活に入った[6]。1970年の今村監督の『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』には助監督としてつき、その後も1981年に映画化された『ええじゃないか』の資料調べをするなど[14]、3年ほど今村プロに在籍。しかし今村プロが開店休業状態のため仕事がなく、他の独立プロで仕事をしたいと今村に申し出。日活の臨時雇いの契約助監督の仕事を、あくまで出向だぞと釘を刺されながら今村から紹介され[15]、1971年に日活契約助監督となる[16]。25歳のこの年、国映の専務から声をかけられ、外国人ポルノ女優を使って洋ピンもどき『センチメンタル・ジャーニー』を作ったが、9割方撮り終えたところで頓挫した[16][注 1]。 当時はダイニチ末期と日活ロマンポルノ転換の端境期にあたり[6][16]、小沢啓一、藤田敏八、西村昭五郎、神代辰巳らの作品に付く傍ら、『濡れた荒野を走れ』、『青春の蹉跌』、『宵待草』、テレビ『悪魔のようなあいつ』などのシナリオを書き注目された。「ポルノの脚本なんか書いたら他から仕事が来なくなるぞ」といわれ、ロマンポルノ初期には一線級のライターは殆ど脚本を書かなかったから[16]、長谷川が脚本を書くようになった[16]。脚本料は1本15万円[16]。テレビ『悪魔のようなあいつ』は1本25万円[16]。
助監督時代