長谷川勝敏
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長谷川 勝敏

基礎情報
四股名長谷川 戡洋
本名長谷川 勝敏
生年月日 (1944-07-20)
1944年7月20日(77歳)
出身北海道空知郡栗沢村
(現在の岩見沢市
身長183cm
体重128kg
BMI38.22
所属部屋佐渡ヶ嶽部屋
得意技左四つ、寄り、掬い投げ
成績
現在の番付引退
最高位東関脇
生涯戦歴678勝577敗15休(98場所)
幕内戦歴523勝502敗(69場所)
優勝幕内最高優勝1回
十両優勝1回
幕下優勝1回
殊勲賞3回
敢闘賞3回
技能賞2回
データ
初土俵1960年3月場所[1]
入幕1965年1月場所[1]
引退1976年5月場所[1]
引退後秀ノ山親方
備考
金星9個(栃ノ海2個、佐田の山2個、柏戸2個、北の富士2個、輪島1個)
2012年12月14日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

長谷川 勝敏(はせがわ かつとし、本名同じ、1944年7月20日 - )は、北海道空知郡栗沢村(現在の岩見沢市)出身(出生地は樺太恵須取支庁恵須取郡珍内町)で佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士。現役時代の体格は身長183cm、体重128kg。得意手は左四つ、寄り、掬い投げ。最高位は東関脇。一時期、四股名を長谷川 戡洋(はせがわ かつひろ)としていた時期もあった[1]

叔父は四季の花範雄目次

1 来歴

2 主な成績

2.1 場所別成績


3 改名歴

4 年寄変遷

5 エピソード

6 関連項目

7 脚註

来歴

父親は炭鉱マンで、炭鉱のある樺太の珍内町(現在のロシアサハリン州クラスノゴルスク)で生まれ、1950年昭和25年)春に樺太から引き揚げる。1960年(昭和35年)3月場所に初土俵を踏んだ。恵まれた体で新弟子の頃より期待され、1965年(昭和40年)1月場所で新入幕を果たす。同年9月場所で横綱栃ノ海から初金星を奪い、以後金星を9個獲得した(他に自身の関脇在位中に大鵬から2勝、玉の海から1勝を挙げている)[1]

長く大関候補と呼ばれ、1972年(昭和47年)3月場所関脇で12勝3敗、優勝決定戦前頭7枚目魁傑を大熱戦の末下し優勝[1]。前場所も優勝者に次ぐ10勝5敗で大関昇進との声も上がったが、当時4人いた大関の琴櫻清國大麒麟前の山が揃って不振で、そのうえ大関同士の無気力相撲に対する批判、大関が弱く「粗製乱造」の批判が上がっていたことなどから、運悪く昇進を逃した。

翌5月場所の本場所パンフレットでは小結貴ノ花、関脇輪島、関脇三重ノ海らとともに次の大関候補5人に挙げられたが、8勝7敗に終わり再度見送られる。続く7月場所は5勝10敗と負け越して平幕の地位に陥落、結局大関昇進のチャンスを逸してしまった。私生活では数々の命拾いをした強運の持ち主(詳細は下述の「エピソード」を参照)であった長谷川にしてみれば、相撲の番付運としては決して恵まれたとは言い難い。

幕内上位から三役で活躍し、関脇を当時最多記録の21場所も務め、時津山と並び「戦後最強の関脇」と言われた(現在は琴光喜(元大関)の22場所が史上最多記録。次いで2代琴錦魁皇と並び史上2位タイ)。また小結(9場所)・関脇の通算在位合計30場所も当時の最多記録だった(現在は2代琴錦・34場所、魁皇・32場所、武双山・31場所に次ぎ、琴光喜と並び史上4位タイ)[1]

1976年(昭和51年)1月場所10日目に史上初の幕内連続出場1000回を達成したが、同年5月場所中に引退を表明[1]。その引退会見で長谷川は「心の中では大関になれたと思っています…」と、悔しそうな表情を浮かべながらの弁を残した。


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