長谷川利行
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長谷川 利行
(はせかわ としゆき)
自画像
本名長谷川利行
誕生日1891年7月9日?
出生地京都府京都市[1]山科区
死没年 (1940-10-12) 1940年10月12日(49歳没)[2]
死没地東京府東京市[1]
国籍 日本
芸術分野洋画
教育私立耐久中学校中退
受賞第1回新光洋画会展入選(1920年)
第14回二科展樗牛賞(1925年)[1]
「一九三〇年協会」展奨励賞 (1926年)
後援者天城俊彦[1]
活動期間1920年代 - 1940年
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田端変電所
第1回新光洋画会展入選(1920年)

長谷川 利行(はせかわ としゆき、明治24年(1891年7月9日? - 昭和15年(1940年10月12日)は京都府出身の洋画家歌人。姓の読みは本人の署名に従い「はせかわ」とした。愛称は「りこう」[3]
経歴

1891年に京都府京都市山科区伏見警察署警察官であった長谷川利其(としその)、テルの五人兄弟の三男として生まれる。家族構成や出生日はいくつかの説があり、はっきりとしていない。和歌山県有田郡広村(現・広川町)の私立耐久中学校(現・県立耐久高校)に入学し文学を志し同人誌などを発行するも[4]1909年に中学校を中退する。当時は歌や詩に興味を持ち、1919年には「長谷川木葦集」という私家版の歌集[5]を発行している。30歳になる1921年に上京するも、しばらくは大衆小説などを書いていた。

いつ頃に絵を始めたか不明であるが、独学で画を学ぶ。自身の「アトリエ」を持たず、「思い立ったら絵を描く」スタンスを生涯続けた。帝展二科展に落選を重ね、田辺至ら主催[6]の第1回新光洋画会展(1920年[7][8]にて「田端変電所」が初入選する。

関東大震災に被災し、また震災の被害をうけた東京をうたった歌誌「火岸」[9]を刊行後、帰郷し、一時京都で活動する。1926年に再上京し、日暮里日蓮宗中山派修練所の離れに暮らす。紹介で高橋新吉と出会い、前田寛治里見勝蔵の知遇を得る。

靉光熊谷守一熊谷登久平麻生三郎井上長三郎寺田政明らとの交流が始まり、第14回二科展で樗牛賞を受賞、精力的に活動。翌1926年には佐伯祐三らの「一九三〇年協会」展で奨励賞を受けるなど、徐々に評価を高めていった。

だが、長谷川の生活は、浅草近辺の貧民街で一日中絵を描いているか、絵を換金して酒を飲んでいるかだったという。ついには、友人たちに絵を書いて送りつけたり、前田夕暮岸田國士ら著名人のところに押しかけて絵を描き、金をせびったりするなど生活は荒れ果てていった。このため、知人たちは後世まで彼については堅く口を閉ざしており、その経歴には不明な点が多い。

40歳を過ぎた1929年以降は山谷木賃宿簡易宿泊所救世軍の宿舎などを転々とし、1937年の二科展を最後に公募展へ出展していない。1932年に詩人や小説家と共に芸術家グループ「超々会(シュルシュル会)」を結成し、長谷川は会の中心的な人物となるものの、1年ほどで自然消滅したという。麦酒室(ビーヤーホール)
二科展・樗牛賞(1927年)

その後、理解者であった天城俊彦が新宿に開いた天城画廊で頻繁に個展を開いていたが、安酒の飲み過ぎで慢性化していた胃潰瘍が悪化すると徐々に身体が弱り、また1936年の晩秋頃に泥酔してタクシーにはねられ重傷を負うなど、1939年以降はほとんど作品を残していない。

1940年5月17日三河島の路上で行き倒れになり養育院に収容される[10]胃癌の治療を拒否し、同年10月12日死去。49歳没。この際、手元にあったスケッチブックなどの所持品がすべて養育院の規則により焼却された。

1941年1月になって養育院を訪れた天城俊彦らにようやくその死が知られることとなり、遺骨は天城によって引き取られた。1947年に追悼の短歌集が発行され、高橋新吉、里見勝蔵、児島善三郎熊谷登久平、あるいは長谷川を援助した有島生馬[11]らが文を寄せた[12]

30周忌を迎えた1969年10月15日、上野不忍池弁天島に建てられた「利行碑」および隣に立つ歌碑の除幕式を画廊羽黒洞(代表・木村東介)が主催する[注釈 1]
画風

画家としての活動は20年に満たないが、その割に残っている作品数は多い。非常に速筆で、1?2時間ほどでれっきとした油絵を仕上た。絵の具の物質性を活かし、木ヘラや指などで引っ掻いたように描いた作品も散見する。色彩としては、白を好んで使った。1935年からの数年間は、ガラス絵を多く手掛けている。見ていた人物の証言によると、ガラスを手に持ち正面を手前に向けたまま反対側に手を回し、裏面からひょいひょいっと僅かな時間で描いたという。
評価

劇団手織座は長谷川利行を描いた演劇として、1967年に第10回公演「落日の涯 長谷川利行の半生」(脚本:高橋玄洋)を朝日生命ホールで上演した(11月7日 - 19日)[13]

しかし、その無頼な生き方や経歴故に贋作が非常に多いことも手伝い、長谷川の作品の評価が進んだのは死後数十年たってからである。2009年、第3回「一九三〇年協会」展に出展した[14]絵画のうちの1点「カフェ・パウリスタ」が発見され、2月24日放送の『開運!なんでも鑑定団』で紹介された。鑑定額は1800万円。その後、職員が同放送を見ていたことから東京国立近代美術館が2009年度に買い取った[15]という経緯が、同番組で明かされた[16]。美術館では修復と科学分析が行われ[17][18]、所蔵する長谷川作品は『岸田国士像』(1930年)、『鉄工場の裏』(1931年)や『新宿風景』(1937年頃)と合わせて4点となった[注釈 2]
主な回顧展

1961年に開かれた個展では、短い会期に100点ほどが紹介された。それから半世紀以上を経た2018年の春から冬にわたり、代表作を含む140点前後を集めた規模の大きな回顧展が国内各地の5館を会場に開かれる。この「長谷川利行展 Hasekawa Toshiyuki - Retrospective」には新発見の作品も展示されている。
1961年03月07日 - 03月12日 「長谷川利行名作展」


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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