長谷川伸
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長谷川信」あるいは「長谷川慎」とは別人です。

長谷川 伸
(はせがわ しん)
1931年頃
誕生長谷川伸二郎
1884年3月15日
日本神奈川県横浜市日ノ出町
死没 (1963-06-11) 1963年6月11日(79歳没)
日本東京都中央区明石町
墓地高福院(東京都品川区)
職業小説家
劇作家
言語日本語
活動期間1914年 - 1963年
ジャンル小説
主題股旅物
代表作『関の弥太っぺ』(1930年)
『瞼の母』(1936年)
『荒木又右衛門』(1951年)
主な受賞歴菊池寛賞(1956年)
朝日賞(1962年)
配偶者まさえ、七保
子供美津枝
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長谷川 伸(はせがわ しん、1884年明治17年)3月15日 - 1963年昭和38年)6月11日)は、日本の小説家[1]劇作家[2]。本名は長谷川 伸二郎[1](はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。

大衆文芸作家であり、人情の機微に通じ、股旅物の作者として知られた[2][3]。「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。長谷川伸生誕地の碑(横浜市)
略歴

神奈川県横浜市日ノ出町)の土木請負業の家に生れる。長谷川寅之助の二男[2][3]三谷隆正三谷隆信の異父兄[2][3]。実母は横浜市泉区の出身だが、夫の暴力・放蕩が原因で、伸が3歳のとき家を出る。後年『瞼の母』の主題となる母との再会を果たした。

実家が没落したため小学校3年生で中退して船渠勤め等に従事。品川遊郭で出前持ちをするなど住み込みの走り使いや水撒き人足として働く間に、港に落ちている新聞のルビを読んでは漢字を覚えた。大工石屋の見習いなどを経たあと、体より頭を使う仕事をしたいと、好きだった芝居の評を新聞社に投稿し、それが縁で1903年(明治36年)にその新聞社の雑用係として入社。その後、英字新聞ジャパン・ガゼットに移る。1905年(明治38年)に千葉県国府台の騎砲兵第一連隊に入営する。そのときの中隊長が、のちの陸軍大臣となる畑俊六大尉だった。

除隊後、横浜毎朝新報社に入社。たまたま警察回りの記者が辞めたため、事件・事故の記事担当となり、他社の記者が書いた記事を集めては真似をして記事の書き方を学ぶ[4]都新聞の劇評家・伊原青々園に手紙を書いたところ、まったく見ず知らずであったが、伊原の口ききで1911年(明治44年)から都新聞社の演芸欄を担当する記者となる。長谷川はしばしば劇評を演劇雑誌などに投稿しており、伊原はその名前を覚えていたという。出社の際に履いていく袴がなく、知人に借りうけるため、出社日を1日伸ばしてもらう。入社後、まわりの記者の知識に圧倒され、毎日辞めたいと考えていたが、それは彼らが東京の地理や事情に詳しいだけであると気づき、東京の地図を懐に忍ばせながら記者生活を送った。同時に猛烈に本を読み始める[4]

1914年大正3年)前後に講談倶楽部や都新聞に山野芋作の筆名で小説を発表しはじめ、1922年(大正11年)以降は菊池寛の助言を受け、長谷川伸として作品を発表するようになる。

1925年(大正14年)都新聞を退社して作家活動に入る[5]。同年に、大衆文芸を振興する二十一日会の結成に尽力。このころ周囲で亡くなる人が相次ぎ、自らの体調も思わしくなく、以前易者に言われた死期に近付いていることなどから、もうすぐ死ぬのではないかという思いにかられ、「どうせ死ぬなら、生まれて初めて自分が自分の体に奉公しよう。ダメなら大道で天ぷら屋でも始めればいい」と考えて、1926年(大正15年)には都新聞社を退社、以後作家活動に専念した。困難の次には困難でないことが起こるということを苦しい生い立ちから学び、前途が乏しいときほど力で出る、と長谷川は語っている[4]

五反田で芸者屋を営んでいた妻・まさえが亡くなり、自殺を考えるほどのスランプから小説が書けなくなり、脚本を書き始める。いくつかが上演されたのち、沢田正二郎が演じた『掏摸(すり)の家』の好評をきっかけに、劇作家として徐々に話題を集め[4]、『沓掛時次郎』など、次々とヒット作を世に送り一時代を築く。

1927年(昭和2年)、江戸川乱歩土師清二小酒井不木国枝史郎らと耽綺社を設立し、大衆文学の合作を試みる。また1933年(昭和8年)には二十六日会を結成。参加メンバーは土師清二甲賀三郎湊邦三、藤島一虎、北条秀司、谷屋充、大村清、村上元三小菅一夫、矢田弥八、西川清之、池波正太郎広瀬五郎、浜田秀三郎、穂積驚、村松駿吉、山手樹一郎山岡荘八らであり[6]、大衆文芸や演劇の向上を目的とした活動においてもその名が知られるようになる。また、他に主宰していた小説勉強会新鷹会の門下生には長谷川幸延村上元三山手樹一郎山岡荘八戸川幸夫河内仙介平岩弓枝池波正太郎西村京太郎武田八洲満らが名を連ねた。

1934年(昭和9年)、たった一度だけ劇場の廊下で出会った作家の松本恵子から手紙が届く。封を開ける前に「母親の居所がわかったのだ」という啓示があったという。手紙を読み終えると「熱海に行く」と妻・七保に言い残し、ひとり家を出る。誰もいない温泉に入り、湯から出ようと立ち上がったとき突然.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}滂沱(ぼうだ)の涙があふれ、翌日まで部屋で呆然と過ごしたのち、帰京後、母と会うことを決心。牛込にある母親の再婚先を訪ね、再会を果たす。異父弟の三谷隆正(法学者)、三谷隆信(官僚)とも面談する[4]。この再会を朝日新聞の記者がすっぱ抜き、新聞紙上を賑わせた。

1938年(昭和13年)8月、内閣情報部が22人の従軍文士を決定。選に漏れた長谷川らが海軍に従軍願いを出した結果、同年10月までに他の大衆作家や映画監督とともに従軍が認められた[7]

1963年(昭和38年)、風邪から肺炎を併発し、聖路加国際病院で死去[8]


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