長谷川一夫
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その他の同名の人物については「長谷川一夫 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

精神科医の「長谷川和夫」とは別人です。

はせがわ かずお
長谷川 一夫
1939年6月9日
本名長谷川 一夫
別名義林 長丸
林 長二郎
生年月日 (1908-02-27) 1908年2月27日
没年月日 (1984-04-06) 1984年4月6日(76歳没)
出生地 日本 京都府紀伊郡堀内村字六地蔵[1](現・京都市伏見区桃山)
死没地 日本 東京都港区西新橋東京慈恵会医科大学附属病院[2]
身長162 cm
職業俳優
ジャンル映画舞台テレビドラマ
活動期間1927年 - 1983年
活動内容1916年中村鴈治郎門下に入る
1927年松竹入社、映画デビュー
1937年東宝へ移籍
1947年:「十人の旗の会」を結成して新東宝を創立
1950年大映に入社
1955年東宝歌舞伎初演
著名な家族長男:林成年
長女:長谷川季子
次女:長谷川稀世
主な作品
映画
雪之丞変化
藤十郎の恋
銭形平次捕物控』シリーズ
地獄門
近松物語』テレビ
赤穂浪士

 受賞
ブルーリボン賞
大衆賞
1953年
その他の賞
国民栄誉賞
1984年(没後)

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長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年明治41年)2月27日 - 1984年昭和59年)4月6日)は、日本俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。愛称は長さん。身長162cm[3]

戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎大河内傳次郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[4]歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台テレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。

最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。のちに離婚し、新橋の名妓・飯島繁と再婚。俳優の林成年は長男、女優の長谷川季子長谷川稀世は長女・次女、また稀世の娘に女優の長谷川かずきがいる。
来歴
歌舞伎界へ

1908年(明治41年)2月27日木曜日)、京都府紀伊郡堀内村字六地蔵(現在の宇治市六地蔵)に生まれる。一夫の叔父(母の弟)で、家業の造り酒屋を継承し、大手座という芝居小屋を経営していた長谷川宗太郎の影響で、幼いころから大手座に出入りし、芝居を見て育った。

1913年(大正2年)、中村鶴之助一座の『菅原伝授手習鑑 寺子屋』に風邪で倒れた子役の代役として、菅秀才を演じ舞台デビューした[5][6]。これが奇縁となり、翌1914年(大正3年)、関西歌舞伎の中村福円の弟子となり[7]、中村 一夫を名乗る。全国を巡業漂泊し、1917年(大正6年)、福円一座と共に初東上して浅草吾妻座に出演、嵐 佳寿夫と改名した[8]

1918年(大正7年)、初代中村鴈治郎の門下に加わり、その長男林長三郎に預けられ、林長丸を名乗る[8]。鴈治郎一座の関西青年歌舞伎には、後に映画界に移る市川百々之助、市川右一(市川右太衛門)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)らがいた。長丸は女形として人気を博し、鴈治郎からは実の子のように可愛がられたという[4]

1926年(大正15年)、大阪松竹座こけら落としの舞台に出ているところ、観劇に来た大阪松竹社長白井松次郎二代目実川延若にその美貌ぶりを認められる。
映画界へ林長二郎時代

1927年(昭和2年)、白井の社長命令で、師の了解のもと松竹下賀茂撮影所に入社。師から林長二郎の芸名を貰い、犬塚稔監督の『稚児の剣法』で銀幕デビューを果たす。

当時、時代劇映画の製作に注力し始めた松竹は、林を期待の新人スターとして、莫大な宣伝費をかけて売りだされた。結果、この映画は若い女性の間で大人気となり、林は抜群の美貌に加え、若手時代劇スターを渇望していた松竹が社をあげて宣伝したことが功を奏してたちまちスター俳優となった。

同年、主演第2作目で衣笠貞之助監督の『お嬢吉三』に出演。以来衣笠とは大映時代までの約50作品でコンビを組んだ。松竹時代では『鬼あざみ』『二つ燈籠』『鯉名の銀平』などの衣笠作品に主演、同時に美剣士スターとして大人気となった。

1935年(昭和10年)、衣笠の『雪之丞変化』が公開されると、長二郎の人気は頂点に達する。物語の面白さもさることながら、長二郎は3役(女形の歌舞伎役者に身をやつして両親の仇討ちをする剣豪の雪之丞、それを助ける義賊の悪太郎、雪之丞の母)に扮して千変万化の主演ぶりを見せ、大ヒットとなった。「流す涙がお芝居ならば・・・」の主題歌も流行した[9]
東宝、新東宝へ

1937年(昭和12年)、松竹を退社し、東宝に移籍。「忘恩の徒」とマスコミから轟々たる非難を浴びる。移籍の背景には長谷川が最新の設備に惹かれたことと、松竹の扱いに憤慨した母親が長谷川に相談せず東宝との契約書に押印したとの事情も伝えられている[10]。また、当時東宝撮影所所長であった今井理輔は、移籍の理由として中村鴈治郎の死後、一家に対する松竹の仕打ちが冷淡であったことを挙げたほか、月給が松竹時代より500円安くなっていることに触れ金銭が原因ではないことを示唆している[11]

同年11月12日、『源九郎義経』(渡辺邦男監督)の撮影中、撮影所から宿舎へ移動する最中[12]「松竹への恩義を忘れた不徳義漢」との建前で、撮影所出入りの不良少年・増田三郎と、金という男の二人に襲われて顔を斬りつけられ、左頬を貫通する深手を負い、撮影続行不能、映画は中止。「林長二郎暴漢に顔を斬らる!」との新聞見出しに京都中がてんやわんやとなり、この「二枚目映画スタアの受難」は日本全国を騒然とさせた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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