長谷寺
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この項目では、奈良県桜井市の長谷寺について説明しています。その他の用法については「長谷寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

長谷寺
長谷寺外観
所在地奈良県桜井市初瀬731-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度32分9.2秒 東経135度54分24.6秒 / 北緯34.535889度 東経135.906833度 / 34.535889; 135.906833座標: 北緯34度32分9.2秒 東経135度54分24.6秒 / 北緯34.535889度 東経135.906833度 / 34.535889; 135.906833
山号豊山、豐山(ぶさん)
院号神楽院(神樂院)
宗旨新義真言宗
宗派真言宗豊山派
寺格総本山
本尊十一面観音重要文化財
創建年伝・朱鳥元年(686年
開山道明
正式名豊山 神楽院 長谷寺
別称花の御寺
札所等西国三十三所第8番
真言宗十八本山第16番
神仏霊場巡拝の道第35番(奈良第22番)
文化財本堂・長谷寺経・銅板法華説相図(国宝
木造十一面観音立像・仁王門ほか(重要文化財)
公式サイト奈良大和路の花の御寺 総本山 長谷寺
法人番号3150005004020
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二本の杉

長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派総本山寺院山号は豊山(ぶさん)。院号は神楽院(かぐらいん)[1]本尊十一面観音(十一面観世音菩薩)。開山は道明とされる。西国三十三所第8番札所。寺紋は輪違い紋。

本尊真言:おん まかきゃろにきゃ そわか

ご詠歌:いくたびも参る心ははつせ寺 山もちかいも深き谷川
概要

大和国伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する「二本(ふたもと)の」は現在も境内に残っている。
歴史

創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武天皇朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺が建てられている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀ったというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺と共に朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じるなど、国家的事業として位置づけられている。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。

創建当時の長谷寺は東大寺華厳宗)の末寺[注 1] であったが、平安時代中期には興福寺法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。

天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により真言宗豊山派が成立していった。

この後、本堂は焼失したが、徳川家光の寄進によって慶安3年(1650年)再建された。

寛文7年(1667年)には徳川家綱の寄進で本坊が建立されたが、1911年明治44年)に表門を残して全て焼失した。しかし、1924年大正13年)に再建されている。

近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉長谷寺をはじめ日本各地に多くあり、240か寺ほど存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

門前町初瀬参道脇には、西国三十三所観音霊場をつくるよう閻魔大王から託宣されたと伝わる僧侶の徳道が天平7年(735年)創立したといわれる番外札所法起院(徳道上人廟)があり、初瀬川 (奈良県)を渡るとかつて長谷寺の鎮守社であった與喜天満神社がある。
本堂本堂(礼堂)を望む本堂(正堂)を西北から見る本堂平面図本尊十一面観音像

国宝。本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都清水寺本堂と同じく懸造になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天文7年(1538年)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。

現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものである。同年6月に記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。天正再興時の本堂は、元和4年(1618年)には雨漏りが生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある[2]。高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。


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