長講堂領
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長講堂領(ちょうこうどう りょう)は、中世荘園公領制下における王家領荘園群の一つ。
概要

長講堂後白河院の院御所である六条殿(ろくじょうどの)内に建立された持仏堂を起源とする、法華長講弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)の略称で、現在も京都市下京区本塩竈町の六条通沿いにある。

後白河天皇の即位時、父の鳥羽法皇が所有していた広大な所領(安楽寿院領)は、既に異母妹の八条院(ワ子内親王)に(八条院領)、母の待賢門院が所有していた法金剛院領も同母兄の崇徳上皇にそれぞれ受け継がれており、天皇自身はこれと言った所領を有していなかったが、直後に勃発した保元の乱に勝利し、藤原頼長没官領を後院領として入手し、これを基軸として荘園の集積を進めていった[注釈 1]

元暦年間に創建された長講堂は、1188年(文治4年)に一度火災で焼失した。この時は後白河院の命で院分国からの負担で賄ったが、この教訓が荘園集積の契機になったとみられる[1]

1191年(建久2年)後白河院は莫大な荘園を長講堂に寄進し長講堂領が確立する。翌年、後白河院は死を前に長講堂とその所領を寵姫丹後局所生の宣陽門院(覲子内親王)に譲り、源通親を別当に任じた。42ヵ国89ヵ所に及ぶ長講堂の膨大な荘園は後白河院の没後も増加を続け、また宣陽門院が後鳥羽院の子である雅成親王猶子として将来の譲渡を約束したが、承久の乱が起こった際に雅成親王は乱に連座して配流された。これまでの通説では、長講堂領は承久の乱の結果、鎌倉幕府の管理下に置かれて、翌年には宣陽門院に返還されたとされていた。しかし、近年の研究では鎌倉幕府による没収を裏付けるものはない[注釈 2]とされている[3][4]

宣陽門院は1225年(嘉禄元年)、近衛家実の娘である長子(のちの鷹司院)を養女に迎えた。ところが、翌年になって長子がわずか9歳で後堀河天皇中宮に立てられることになった。宣陽門院は自分の死後に自分や亡き後白河院の追善が安定して行われることを期待して、自分自身が天皇の外戚となって将来の皇位継承者に長講堂領を譲る意向であったとみられるが、後堀河天皇も四条天皇(長子はその准母になっていた)も早世してその可能性は絶たれた[5]

そのため、1246年(寛元4年)になると、宣陽門院は後嵯峨院に対して、鷹司院を出家させた上で一期分として譲渡して彼女の没後に後嵯峨院の子である後深草天皇に譲渡することを申し出た。これに対して後嵯峨院は彼の愛する息子でありながら母親の身分が低く皇位継承が絶望的であった天皇の異母兄・宗尊親王(後の鎌倉幕府将軍)への譲渡を望んでいたが、宣陽門院はあくまでも皇位継承者への譲渡に拘っており、後嵯峨院も最終的にはこれを受け入れた[6]。その後、宣陽門院は1251年(建長3年)に先の処分状を破棄して長講堂領を直ちに後深草天皇に譲渡する見返りに長講堂における後白河院の法要を引き継ぐことを後嵯峨院に約束させ、代わりに鷹司院には元の上西門院領を一期分として与えた[7]。当時の天皇は幼少で、実質においては治天の君である後嵯峨院が掌握してその院政の財政的な基盤となった。

後嵯峨院は後深草天皇に代わって弟の亀山天皇を即位させたが、1267年(文永4年)に後嵯峨院が出家するに先立ち、長講堂領の一切の権利を後深草院に譲渡した。このため、後に後嵯峨院は後深草院に長講堂領を譲る代わりに子孫の皇位継承を諦めさせようとしたとする俗説[8]が生まれた。また、後深草院への権利の移転によって亀山天皇の系統(大覚寺統)へ長講堂領が渡る可能性が失われ、1307年(徳治2年)には後深草院は息子である伏見院に譲渡され、以後後深草院の系統(持明院統)の歴代天皇に継承され、大覚寺統の後醍醐天皇1326年(嘉暦元年)の後伏見院から花園院への長講堂領移転を認め、1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)の正平一統の時も後村上天皇は当時の光厳院の長講堂領領有を認めた。


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