長興寺
本堂
(2019年(平成31年)4月)
所在地愛知県豊田市長興寺1-29
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度4分25.48秒 東経137度10分5.14秒 / 北緯35.0737444度 東経137.1680944度 / 35.0737444; 137.1680944
長興寺(ちょうこうじ)は、愛知県豊田市にある臨済宗東福寺派の別格寺院。 山号は集雲山(しゅううんざん)。本尊は十一面観音。開山は太陽義冲
概要
歴史が菩提寺として太陽義冲を招聘して創建。当時の寺域は南北5丁余り、東西4丁余り、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、地域最大の寺院であった。
室町時代中期、応仁の乱(1468年 - 1477年)後、中條氏の衰退と共に衰退。永禄10年(1567年)には、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって焼失した。天正11年(1583年) 信長の家臣で衣城代の余語正勝が、再興した長興寺で信長の一周忌法要を行った。その際に、日本の歴史教科書にも掲載されている狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」[2](重要文化財)が寄進された。
元禄年間(1688年 - 1704年) 本堂、庫裏を重建。現本堂は昭和50年代 鉄筋コンクリート造で再建されたものである。 長興寺を中心に住民が増加し、寺院への供物を受け持つ地域を東西に分け、「長興寺字供膳(くぜ)寺」という地名が設定された。これが今の地名が寺の地名と同じになった起こりである。 江戸時代には長興寺村となり、挙母藩(2万石)の領地の一部であった。城下ではなく、農村集落で約400石ほどであった。 明治時代中頃に、周囲の村と合併して根川村となり、更に1906年(明治39年)、城下と合併して挙母町となった。 長興寺には、鐘泥棒の昔ばなし「長興寺の鐘」のがある。 泥棒に盗まれた鐘が「長興寺恋しやポンワンワン、返しておくれんポンワンワン」と鳴ったと云う民話が語り継がれている。 詳しくは、外部リンクを参照。
長興寺村
文化財紙本著色織田信長像
狩野元秀筆
重要文化財(国指定)
絹本著色仏涅槃図:応永廿八年幹縁比丘義睦とあり(応永28年は1421年)[3]
紙本著色織田信長像:狩野元秀筆[4]
絹本著色無為昭元像[5]
愛知県指定文化財
絹本著色補陀観音像[6]
絹本墨画三十三観音像[7]
絹本著色太陽禅師像[8]
豊田市指定文化財
絹本墨絵釈迦像[9]
絹本著色不動尊像[9]
絹本著色多聞天像[9]
雲版[9]
織田信長像(全図)
無為昭元像
仏涅槃図
民話(昔ばなし)
交通アクセス
名鉄三河線 上挙母駅から徒歩で約30分。
ギャラリー
山門
(2019年(平成31年)4月)
観音堂
(2019年(平成31年)4月)
境内
(2017年(平成29年)1月)
中条秀長の墓
(2017年(平成29年)1月)
長興寺の鐘
(2017年(平成29年)1月)
脚注[脚注の使い方]^ 「衣」を「挙母」と表記するようになるのは、天和元年(1681年)、本多家が藩主となってからである。
^ 信長の戒名は「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。
^ “ ⇒絹本著色仏涅槃図”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
^ “ ⇒紙本著色織田信長像〈狩野元秀筆〉”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
^ “ ⇒絹本著色無為昭元像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
^ “ ⇒絹本著色補陀観音像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
^ “ ⇒絹本墨画三十三観音像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
^ “ ⇒絹本著色太陽禅師像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
^ a b c d “ ⇒指定・登録文化財一覧”. 豊田市. 2013年6月4日閲覧。
関連項目
二龍松 - 長興寺に伝わる変身譚
日本の寺院一覧
日本の寺の画像一覧
外部リンク
⇒歴史の香る散歩みち 朝日丘地域 長興寺コース(豊田市:朝日丘まちづくり委員会)