長與善郎
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1955年

長與 善郎(ながよ よしろう、新字体:長与 善郎、1888年明治21年〉8月6日 - 1961年昭和36年〉10月29日)は、日本小説家劇作家評論家白樺派作家として人道主義的な作風で知られた。

東大英文科中退。戯曲『項羽と劉邦』(1917年)などで認められ、白樺派の中心的存在に。人道的な作風で活躍した。作品に小説『青銅の基督』(1923年)、『竹沢先生と云ふ人』(1925年)、自伝『わが心の遍歴』(1959年)など。
略歴

医学者長與專齋の五男として東京府に生まれる。長與家は漢方医として代々肥前大村藩に仕えた家系である。

1900年(明治33年)、東京麻布の南山小学校から学習院に転校する。1911年(明治44年)、志賀直哉武者小路実篤らの同人誌白樺』に参加する。同年、東京帝国大学文学部英文科入学、1912年大正元年)に退学する。

関東大震災で『白樺』が廃刊になった後は『不二』を主宰した。

戦時中は日本文学報国会理事であり、1944年(昭和19年)、大東亜文学者大会第3回大会に日本団団長として参加する。

1948年(昭和23年)、芸術院会員。1960年(昭和35年)に自伝小説『わが心の遍歴』で読売文学賞を受賞。

1961年(昭和36年)10月29日、心臓衰弱のため世田谷区北沢の自宅で死去した[1]。墓所は青山霊園(1イ2-2-6)

作品に『盲目の川』、『項羽と劉邦』(白井鐵造作・演出の宝塚歌劇団初の一本立てミュージカル虞美人』の原作)、『青銅の基督』、『竹澤先生と云ふ人』など。『項羽と劉邦』には、親交のあった画家河野通勢が挿絵を描いた。
家族

医学者である父・長與專齋は、内務省衛生局の初代局長を務めるなど日本の医療制度の開拓者であり、鎌倉由比ヶ浜結核療養施設(サナトリウム)海浜院を開設、保養地としての鎌倉を拓いた人物でもある[2]

善郎は8人兄弟の五男で末子[3]。22歳年上の長兄長與稱吉は医師で父の功により男爵、妻は後藤象二郎の娘。長姉・松方保子は松方正義長男・巌の妻。次兄・長與程三は実業家(日本輸出絹連合会組長、茂木合名理事など)[4]。長姉の「偽善、虚栄、意地悪」への極端な反発は、善郎を文学に走らせる動機の一つとなった[5]。次姉・長與藤子は善郎が6歳の時に15歳で海水浴中に溺死した(没後、下田歌子が藤子や近親者の歌をまとめた追悼歌集『うたかた』上梓[6]。藤子の死で両親は病み、長與家は暗澹たる淋しい生活に一変したと善郎は記している[3])。三兄長與又郎は病理学者で東京帝国大学総長、男爵、妻は森村財閥(現・森村グループ)を築いた森村組創業者・森村豊の娘。四兄岩永裕吉(母方の岩永家養子)は同盟通信社の初代社長。三姉・平山道子は、日本消化器医学会会長、日本医科大学理事なども務めた胃腸病学の大家で夏目漱石などの主治医でもあった平山金蔵[7][8]の妻。

妻に市川茂。長女・長與恵美子は作曲家[9]
著書


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