長老派教会
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ジョン・ノックス(1510年 - 1572年)原画はthe possession of Lord Torpichen at Mid Calder House[1][2]

長老派教会(ちょうろうはきょうかい、英語: Presbyterianism, Presbyterian Church)は、キリスト教プロテスタントカルヴァン派教派。長老教会、長老派、プレスビテリアンとも訳される。
概要

歴史の長いプロテスタントの一派である。16世紀スイス宗教改革において、チューリヒツヴィングリ派はブリンガーに引き継がれ、ジュネーヴカルヴァン派との、チューリッヒ協定による改革派教会の合同が成立した際、教会制度はカルヴァンの長老制が採用された。カルヴァンは聖書の権威にしたがって、教会を治める「監督、長老、牧師」を区別しなかったと述べた。改革派の中心地は1520年から1560年にかけてチューリッヒからジュネーヴに移っていったと言われる[3] 。聖書によって改革され続けるという改革派の信仰は、ドイツフランスオランダなどで広まったが、ジョン・ノックスによってスコットランドに伝えられ、この地で発展し、教会制度によって「長老派」(プレスビテリアンPresbyterian)を名乗るようになる。ノックスは『戒律の書(訓練、規律書)』で、長老制がジュネーヴからではなく、聖書から直接来たものであると明言している[4]

1567年にスコットランドの国教となり、その後にフリー・チャーチが分離した。大陸の改革派とイギリスの長老派はそれぞれ信仰告白を整備し、準拠する信仰告白によって呼び分けられるようになる。ピューリタン(清教徒)のうちトマス・カートライトはイングランド国教会監督制を否定し、長老制を主張した。長老派のウェストミンスター信仰告白1647年にスコットランド議会で採択され、1648年イングランド議会でも採択された[5]ニュージーランドにおいては主流的存在である。

ウェストミンスター基準に準拠せず、大会、中会、小会を持たなくても、「長老派」「長老教会」を標榜する例は、日本、韓国、台湾などに散見される。現時点での日本において、スコットランドで見られる規模の長老会を持つ教会は存在しない[6]
歴史ヒエロニムス(347年 - 420年)

長老派は、聖書の「使徒行伝」(使徒の働き)14章23節、20章17節、「テトスへの手紙」1章5節に由来する。新約聖書が書かれたギリシア語の πρεσβ?τερο?(presbyteros プレスビュテロス)は、長老という意味である。

教父たちの間では、長老職(カトリック教会でいう司祭)と司教主教)職は同一視されており、時代が下るまで区別されなかった。長老たちが複数いるということは、教会政治の基準であるからである。[7]

教父ヒエロニムス(347年 - 420年)は、「テトスへの手紙」4章で、以下のように述べている。「長老というのは、主教と同一である。悪魔の影響によって党派が増える以前、教会は長老会によって、治められていた。」

教父ヨハネス・クリュソストモス(349年 - 407年)の "Homilia i, in Phil. i, 1"、キュロステオドレトス(393年 - 457年)の "Interpret ad. Phil. iii" も同じ意見を持っていた。
系統概略図プロテスタント諸教派(聖公会アナバプテストを含む)の系統概略
各地で発展していった長老教会
スコットランドの長老教会ジョン・ノックス セント・アンドルーズ大学を卒業し、大陸に渡ってカルヴァンに学んだ

ジョン・ノックス(1505年 - 1572年)はジュネーヴカルヴァンに学んだ。1560年に彼の作成した長老派のスコットランド信条はスコットランド議会に採択された。スコットランド信条は当時としては特筆すべきことに、キリストが唯一の頭であると告白している[8] 。ノックスはスコットランド教会の確立のために戦い、ローマ・カトリックの女王メアリーと対決した。

スコットランド宗教改革の先駆者はノックスに影響を与えた。信仰義認を教え、ローマ教皇反キリストと見なしたために、1528年に殉教したパトリック・ハミルトン1546年に殉教したジョージ・ウィシャートらである。ウィシャートは、ノックスを回心に導いた直後に火あぶりにされた。1557年には、ローマ・カトリックをサタンの教会、その実践を偶像崇拝と呼んで、反対するスコットランドの貴族はエディンバラに集い、神の言葉を確立するための契約を結んだ[9]。この頃スコットランドではすでにプロテスタント信仰が根付いていたのである。

フランスでカトリックの教育を受けたスコットランド女王メアリーは、1561年にスコットランドへ帰国した。メアリーはスコットランド信仰告白を認めなかった。国王の権威とローマ教皇制を回復する狙いを持っていたのである。メアリーは1566年、その目的を達成しようとする直前に、個人的なスキャンダルで自滅した。こうして1567年、スコットランド議会で1560年の「スコットランド信仰告白」と「戒規の書(規律書)」が批准された。しかし、1570年に摂政のマリ伯爵ジェームズ・ステュアート暗殺された事件は、スコットランド宗教改革の進展を遅らせることになった。殉教したカヴェナンターの少女カヴェナンター殉教の碑

スコットランドはその後もカトリック的な司教制と長老制が混在していた。1572年、幼王ジェームズ6世が成人するまで、司教と大司教の存続を認めると決議されたことに、ノックスは反対した。1574年に大陸から帰国したアンドリュー・メルヴィルは、ノックスの死後、指導者となる。1581年の国王の至上権を確立しようとする試みに、メルヴィルは立ち向かった。しかし、1584年の暗黒法で国王至上権と司教制が謳われ、長老教会は倒された。1592年の黄金法はこの暗黒法を廃棄した。

1637年に、チャールズ1世は、カトリック的かつアルミニウス主義的な「ロード祈祷書」をスコットランドに押し付けた。憤慨したスコットランド人は立ち上がり、長老教会を守るための国民盟約に署名した。対して1639年、国王は武力制圧を試み、主教戦争が起こる。


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