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長田 幹彦
昭和28年頃
ペンネーム長田幹彦、三沢操[1]
誕生 (1887-03-01) 1887年3月1日
東京府麹町区飯田町
死没 (1964-05-06) 1964年5月6日(77歳没)
東京都[2]
墓地台東区の寛永寺
職業小説家、作詞家
国籍 日本
最終学歴早稲田大学
代表作『澪』『零落』『祇園夜話』
作詞家としては『祇園小唄』『島の娘』など
親族長田秀雄(兄)
所属日本ビクター
ウィキポータル 文学
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長田 幹彦(ながた みきひこ、1887年(明治20年)3月1日 - 1964年(昭和39年)5月6日[2])は、日本の小説家、作詞家。 1887年、東京府麹町区飯田町に生まれる[3][4]。兄は劇作家の長田秀雄[3]。1904年(明治37年)3月に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属高等学校)を卒業する。中学時代から兄秀雄の影響で新詩社の『明星』に参加するが、後に脱退して1909年(明治42年)頃から『スバル』に同人として参加、詩作を投稿した[3][5][6][7]。早稲田大学在学中に北海道に渡り、炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪した。1911年(明治44年)から翌年にかけてその時の体験を基にした小説「澪」「零落」を『中央公論』に発表して高い評価を受け人気作家となった[3][5]。1912年(明治45年)に早稲田大学英文科を卒業する[2]。 1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて「霧」「扇昇の話」「自殺者の手記」を発表する[2]。これらの作品で当時新進の谷崎潤一郎とともに耽美的作風を併称され[2]、「幹彦潤一郎」と並び称された。1912年夏、谷崎が京都に遊んだ際には連れ立って遊興したが、次第に関係が悪化し、以後、両者の交遊は疎になる。 祇園滞在時の知見を基に、そこの情緒や舞妓たちの宿命を「祇園」「鴨川情話」「祇園情話」として発表する[5]。これらの花柳の巷を舞台とする「祇園もの」でも情話作家として人気を博し、吉井勇と併称されたが、1916年(大正5年)、赤木桁平から「遊蕩文学
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