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出典検索?: "長瀬川" 大阪府
長瀬川
東大阪市森河内地区
水系一級水系 淀川
種別一級河川
延長約14 km
平均流量0.38 m³/s
(東大阪市金岡観測所 1999年)
水源築留樋門(大阪府)
流路大阪市(大阪府)
流域大阪府
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長瀬川(ながせがわ)は、大阪府を流れる淀川水系の農業用排水路(法定外公共物)[1]。大和川分水築留掛かりとして玉串川と共に疎水百選に選ばれている。[2] 大阪府柏原市上市で大和川から分かれ柏原市内を北流。八尾市に入ってすぐの八尾市二俣で玉串川が右方向に分かれ、長瀬川は向きをやや北西に変えて八尾市内を流れる。JR西日本大和路線八尾駅付近からは流路の屈曲がやや激しくなる。東大阪市に入ると多少の屈曲はあるもののおおむね北流し、国道308号をくぐる辺りから向きを北西に変え、大阪市に入ってすぐの城東区諏訪で第二寝屋川と合流する。 古代から大和川の本流としてその水運は利用されてきた。当時は長瀬川という名称ではなく、大和川であった。 中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪と奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発で、流域には八尾・久宝寺(ともに八尾市内)といった集落が発達した。このため、中世には大和川は一部地域では久宝寺川とも呼ばれていた。 しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。大和川は流域面積のうち保水能力に富んだ山地の占める割合が大きく、降った雨が蓄積されるのだが、梅雨や台風の際には保水能力を超えることもあり、また、奈良盆地から大阪平野(河内平野)に注ぎだす柏原口が狭く漏斗の役割を果たし、紀州山地
地理
歴史「大和川付替え」も参照
近世、大和川は豊臣秀頼の重臣片桐且元と角倉与一の開発で亀が瀬(大阪府柏原市)まで「剣先船」という船での水運が開かれ、それより上流は、「魚梁船」という「剣先船」より小型の船で水運が開かれて輸送量を増やすことに成功している。
近世の大和盆地では、水害対策と旱魃対策を兼ねて多くのため池が作られるようになった。これは、旱魃に遭った際の農業への打撃を減らそうという上流の百姓と、大雨の際に被害にあう下流の百姓の利害が一致し、両者の協力により推進された。その結果、現在でも大和と河内の農家の多くは江戸時代に親戚関係を結んでいた記録が多い。
しかし、それでも水害対策としては万全ではなかったため、1657年頃、河内の百姓が「大和川の流れを九十度転換すること」を考案して江戸幕府に直訴したが、多くの資金の要ることであったため幕府も容易には応じず、約50年にわたって付替の運動が展開された。その運動の中心人物となったのが今米村(現在の東大阪市)の庄屋・中甚兵衛である。既存の田畑からの年貢収入が守られることに加え、大和川の注いでいた深野池・新開池の新田開発も可能となることから、幕府はその熱意と計画内容が妥当であると判断し、新川の付替に動いた。しかし付け替え予定の地域に住む百姓たちの間から、村が分断されたり、田畑が川底になり生活ができなくなるなどといった理由により、強硬な反対が起こった。そのため幕府は付替を行わず、水害対策のために大規模な改修工事を行ったが水害は治まらず、1703年10月に幕府は大和川水路修治の令を発して1704年2月に付替工事が始まった。3年計画の工事は、作業に協力した近隣の庄屋の指揮のもと動員された多くの百姓らと、財政的に支援した大阪の多くの商人の働きによってわずか8ヶ月足らずで完成し、同年10月13日に付替地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変えた。その結果、大和川は大阪平野を西流して大阪市と堺市の境で大阪湾に注ぐようになった。
それ以前の大和川は大阪平野を北流し、淀川(旧淀川)に注いでいた。その大和川の旧河道の位置に現在も流れているのが長瀬川であり、戦前までは川幅は河川敷を含め30m程あった(現在の川幅は5m程)。