長沼健
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長沼 健

日本代表対ベトナム代表での長沼健(左側、右はデットマール・クラマー、1963年10月12日)
名前
カタカナナガヌマ ケン
ラテン文字NAGANUMA Ken
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1930-09-05) 1930年9月5日
出身地広島県広島市袋町
没年月日 (2008-06-02) 2008年6月2日(77歳没)
選手情報
ポジションFW

代表歴
1954-1961 日本4(1)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

長沼 健(ながぬま けん、1930年9月5日 - 2008年6月2日)は、広島県広島市中区袋町出身の元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督である[1][2][3][4][5]1994年より第8代日本サッカー協会会長を4年務め、その後同協会最高顧問のほか日本フットサル連盟名誉会長、日本ハンディキャップサッカー連盟会長、日本体育協会副会長、埼玉スタジアム2002場長。
来歴
若年時代

生年の1930年はW杯第1回大会が開催された年でもあった[6][7][8]

実家は広島の老舗電気工事業・長沼電業社[9]。祖父の長沼鷺蔵賀茂郡御園宇村(現・東広島市)出身の広島藩士で、戊辰戦争の際に結成された「神機隊」の参謀[10]明治維新後、廣島県警察部に奉職し刑事係を務めた後、数々の事業を起こしその一つが長沼電業社であり、のち広島有数の実業家となり、広島市議会議員などの要職を務めた[10]。父親、実兄もサッカー選手[6]。広島は野球が非常に盛んな地域であるが、進学した旧制広島高等師範学校附属小学校(現・広島大学附属小学校)には野球班(部)がなく、小学校時から自然にサッカーを始めた[5][11][12]

1945年15歳の夏、原爆投下の日には広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり、当日7時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した[4][6][13][14]。ちょうど山蔭に入ったところで一命をとりとめた[15]。30分帰りが遅かったら直下だった[14]。1週間後、帰ってこない村人の捜索のため市内に入り地獄絵を見る[6][14][15]。「あんなにたくさんの死体をいっぺんに見た人は世界にもそんなにいないと思いますよ。それも誰が誰だか分からないんだから」と話していた[15]。多くの知人・級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多で苦しんでいた。被爆者手帳を持っていた[6][11]。後年、海外遠征すると「お前のネイティブタウンはどこだ」と聞かれ「広島です」と答えると、みんな原爆のことは知っていて、「お前は何で生きてるんだ」と驚かれた[16]。外国では広島市民は全員死んだという認識であった[16]。長沼や古川能章たちが原爆で死んでいたら、日本サッカーの戦後の歴史は大きく変わっていたといわれる[4]
学生時代

終戦後、焼け野原となった町でグラウンドの整地、食糧調達、器材の作製などを自分達で行い、1個だけのボールを縫いながらサッカーに打ち込みボールを追った[13][17][18][19][20]。戦争で中断されていた全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)が1947年に復活。長沼は旧制広島高等師範学校附属中学(現・広島大学附属高校[21]のエースFWとしてチームを戦後初の優勝に導いた[4][22][23]。チームは相手の虚を突くパスワークに抜群の冴えを見せ、ボールを両足で自由に蹴れるのはこのチームだけだったと言われている[11][24]

特にFWの3人、のち“アジアの黒豹”と謳われた木村現樽谷恵三、長沼の速攻は当時の学生レベルでは止められなかった[4][25][26][注 1]。5-0、4-0、5-0、7-1と4試合で21得点を叩き出し、得失点差は+20[22]。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残る。同チームの右ハーフバックHB)だったのがヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)創設者・古川能章[19]。この大会の初戦で、のち長らく盟友となる東京都立五中学(現・都立小石川高校)の岡野俊一郎と対戦している[4][11][17][27][28][29][30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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