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長沢松平家
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}花丁字(はなちょうじ)
本姓称・清和源氏
家祖松平親則
種別武家
士族
出身地三河国宝飯郡長沢
主な根拠地三河国宝飯郡長沢
著名な人物松平康忠
松平忠輝
松平忠敏
松平正直
支流、分家大河内松平家(武家・子爵)
正直家(武家・男爵)
凡例 / Category:日本の氏族
長沢松平家(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。
長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、長沢松平家と呼ばれた。なお、摂津源氏とされる大河内氏から分家に養子として入った松平正綱が大名として取り立てられただけでなく、正綱の後継として入嗣した甥の信綱が松平伊豆守家として大成させて本家より栄えたため、江戸時代の長沢松平家は傍流の大河内松平家を指す場合が多いようである。正綱も信綱も「長沢松平家の傍系へ入嗣した大河内氏」であり、長沢松平家の直系および傍系はこれとは別に存続している。 長沢松平家は松平宗家三代・松平信光の十一男(異説あり)親則を祖とする。本拠地は長沢城であった。この長沢城は現在の豊川市立長沢小学校(愛知県豊川市長沢町字午新)周辺。今では旧東海道拡張のための国道1号建設により、城の丘は南北に分断されている。 著名な人物には、徳川家康の従弟・松平康忠がある。康忠は戦功多く、徳川十六神将の一人にかぞえられている。 文禄2年(1593年)、康忠の子・松平康直が嗣子無きまま病没したため、家康の七男・松千代を養子に迎えて家名存続を図った。その松千代が夭折すると、今度は家康六男(松千代の同母兄)を新たな養子とした。これが松平忠輝である。ただし松千代を経由せず、忠輝が直接継いだとする資料もある。 忠輝を養子に迎えて繁栄を見込めたのは、ほんの僅かな期間に過ぎず、元和2年(1616年)、忠輝は異母兄の将軍・徳川秀忠により改易。長沢松平家の家名は断絶してしまう。 ただし、忠輝の改易後も長沢松平家の血統は残っていた。それでも江戸幕府はなかなかこの家を認めず、享保4年(1719年)にようやく長沢松平家と認知した。天保5年(1834年)に十人扶持になり、やっと幕臣として禄が下された。幕末期の当主・松平忠敏(主税助)は浪士組の取締役になった。 傍系の松平清直は松平忠輝の付家老を務め、忠輝の改易後浪人するが、元和4年5月(1618年)に将軍家に召し出されて三河国宝飯郡形原に5、000石の所領を与えられ、交代寄合となったが、孫の信実 清直の弟の松平正世も忠輝に仕えたが、忠輝改易後は越前松平家に召抱えられ、子孫は越前国福井藩重臣の松平主馬家として存続した。同家の分家筋の松平正直は会津征伐において戦功をあげ、明治以降宮城県知事や熊本県知事、内務次官、貴族院勅撰議員などを歴任した功績で華族(男爵)に叙されている[1]。
概要
その他の長沢松平家
越後長岡藩牧野氏の家老・今泉氏も長沢松平氏の庶流の一つであるとされている。 1) 実線は実子、点線は養子2) 太字は当主。数字は家督継承順。長沢松平家系図 松平信光
系図
凡例
守家
(竹谷松平)親忠
(松平宗家)与副
(形原松平)光重
(大草松平)忠景
(五井松平)光親
(能見松平)親則1
親益2
親清3
勝宗4信重
(信重系へ)
一忠5宗忠[2]
親広6親昌親宅
政忠7忠良[3]近清忠昌親正