長征
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この項目では、中国史について説明しています。その他の用法については「長征 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

長征(ちょうせい、簡体字中国語: ?征; 繁体字中国語: 長征; .mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Changzh?ng; 英語: Long March)は、国民党軍に敗れた紅軍中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう[1]。「西遷」(せいせん)、「大西遷」ともいう。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。
概要長征当時の毛沢東(延安にて)

共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、?介石率いる国民党政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。
国民革命軍の「囲剿」

国民政府は1930年代、「中華ソビエト共和国」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。「囲剿」戦は一般的には、第一次から第五次まで区分されることが多い[注釈 1]。但し、各次ごとの時期区分については、研究により相違がある [注釈 2]。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠く離れた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。

当時の共産党正規軍は中国工農紅軍紅一方面軍(中央紅軍)と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約10万、民兵を含めても15万に満たない兵力であったという。
第1次 - 第4次囲剿?介石(1940年前後)

1930年12月から始まった第1次 - 第4次囲剿では、国民革命軍が兵力を小出しにしたこと、また紅軍側が山岳地帯でのゲリラ戦を展開したことで、これを打ち破った。

国民革命軍の第1次囲剿は魯滌平指揮下の4個師約10万の兵力で望んだが2個師全滅、1師長を捕虜とされる惨敗、第2次囲剿は1931年4月に国民革命軍政治部長何応欽を総司令として行われたが1師長戦死、1師長捕虜となる敗北であった[3]。第3次囲剿は1931年6月中旬30万の大軍が動員され、南昌に司令部を置き、そこで?介石自ら督戦したものの左翼の陳銘枢麾下の第五路軍の崩壊、さらに孫連仲麾下の第26軍総参謀長趙博生以下2万が紅軍に投降するという敗北に終わり、第4次囲剿は1932年7月、15個師100万の大軍が動員されて開始されたが中共軍は東路の第1、第5両軍団と西路の第3軍団とを合わせ、初めに江西省南部に進出して陳済棠麾下の広東軍を撃破してから直ちに北上し、国民革命軍3個師を壊滅させた[4]

瑞金の中央ソビエト区では紅軍の防衛が成功していた一方、地方のソビエト区も国民革命軍の攻撃に晒されていた。1932年9月には湖北省河南省安徽省にまだがる鄂豫皖ソビエト区が陥落し、張国Zの指導する紅四方面軍(総指揮官徐向前)は四川省への後退を余儀なくされた[5]
第5次囲剿

?介石は第1次 - 第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応できなかったこと、さらには紅軍の装備が貧弱であることから軍隊としての能力そのものも低いであろうと見くびっていたことにあると判断した。1933年春の第5次囲剿ではトーチカ群と経済封鎖を利用した軍事三分、政治七分の戦術を展開し、同年夏からその効果を示し、1934年初頭から投入された中央軍、広東軍、湖南軍135万に紅軍は耐えられず、同年11月から江西中央ソビエト区を放棄して「長征」を開始した[4]

国民革命軍の包囲網に対し、当時共産党の実質的最高指導者であった秦邦憲コミンテルンより派遣された軍事顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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