長府藩(ちょうふはん)は、現在の山口県下関市長府に江戸時代に存在した藩のひとつである。長州藩の支藩で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)ともいう。須原屋武鑑の居城・在所表記では当初は長門長府で、宝暦年中より長門府中に改称されている。藩庁は櫛崎城(長府城、長府陣屋)に置かれた。 藩主は毛利家である。毛利元就の四男穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元を藩祖とする。 秀元は天正20年4月11日(1592年5月22日)には朝鮮出兵に向かうために毛利家の本拠であった広島城に入った秀吉によって直接、輝元の養嗣子となることを承認された。ただし、後日の紛糾を避けるために「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下であった。その後、輝元に嫡男秀就が誕生した。これを受けて慶長3年8月1日(1598年9月1日)、豊臣政権は秀就を毛利家の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には輝元から所領を分知されて大名となることが決定された。 翌年6月、方針に則って秀元に長門国一国と安芸国佐伯郡および周防国吉敷郡の計17万石をもって叔父である小早川隆景(元就の三男)の例に倣って、毛利家臣でありながら一豊臣大名としての身分が認められることとなった。この時が長府藩の立藩であった。 関ヶ原の戦いの後に、輝元が安芸ほか8か国で112万石[1]から周防・長門の2か国29万8千石[2]に減封された際に輝元が東の守りとして岩国に吉川広家(元就の二男吉川元春の三男)を置き、西の守りとして改めて長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)に秀元が領地を与えられた。のちに長州藩は、幕府の了解を得て36万9千石に高直しを行なった[3]。なお、長府藩は綱元の時に叔父の毛利元知に1万石を分知し、支藩の清末藩を立藩させている。 歴代藩主の中では3代・綱元の子である毛利吉元と、8代藩主の匡敬(重就)が宗家の長州藩主を継いでいる。 幕末には宗家の長州藩が下関を直轄領としようとしたため対立したが、後に和解して他の長州支藩とともに戊辰戦争で戦った。しかし、維新後に叙爵された際には維新の功績に伴わず子爵どまりであった。このことに関しては明治天皇の叔父にあたる中山忠光が長府藩に亡命していたときに暗殺されたことで、明治天皇が長府毛利家の伯爵への叙爵を渋ったと言われている(実際は、華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められたもので、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、5万石の長府藩もその制度に漏れなかったというだけである)。 豊浦藩、豊浦県を経て山口県に編入され、廃藩となった。 外様 6万石→承応2年(1653年):5万石→享保3年(1718年):3万8千石→享保5年(1720年):4万7千石→天明3年(1783年):5万石 ※歴代藩主の中で秀元は豊臣秀吉から、光広・綱元父子は徳川将軍家からの偏諱の授与を受けている。また出身者から本家に入った吉元、宗元、重就ものちに将軍家から偏諱を受けている。該当文字は太字で示してある。 毛利輝元 文政年間の毛利元義治世中の主要家臣は以下のとおり。 【家老など】細川織部、毛利玄蕃、三吉内蔵、桂縫殿、伊秩右膳、田代左京、三沢外記、西図書、毛利辰三郎、迫田伊勢之助、細川中務、毛利勘解由、三沢六郎太夫
概要
歴代藩主
毛利家
秀元、穂井田元清の子
光広、初代藩主秀元二男
綱元、2代藩主光広長男(※綱元の長男は宗藩を継いで5代藩主毛利吉元となる)
元朝、宗藩5代藩主毛利吉元の長男(※のちに宗藩の嗣子となって毛利宗元に改名するが、こちらは継ぐことなく死去)
元矩、3代藩主綱元四男
匡広、長門清末藩2代藩主毛利元平が継いで改名
師就、6代藩主匡広五男
匡敬、6代藩主匡広十男(※のちに宗家を継いで7代藩主毛利重就となる)
匡満、宗家7代藩主毛利重就長男
匡芳、宗家7代藩主毛利重就五男
元義、10代藩主匡芳長男
元運、11代藩主元義三男
元周、11代藩主元義長男元寛の三男
元敏、12代藩主元運六男
系譜
〔宗家〕 1秀元
2光広元知
〔清末毛利家〕
3綱元匡広一時廃藩
吉元宗家へ本多忠次挙母藩・本多家へ元矩4元朝
元朝 5元矩
6匡広
7師就政苗清末毛利家相続匡敬
8匡敬宗家相続
9匡満治親宗家相続匡芳
10匡芳
11元義
元寛12元運元承清末毛利家へ
元周13元周元敏元功徳山毛利家へ
14元敏
15元雄
16元匡
17元海
主な藩士