長州五傑
[Wikipedia|▼Menu]
遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)は、江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助山尾庸三伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。
概要

駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン (企業家)マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。

この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として1993年に顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。その顕彰碑は、秋穂二島の山尾庸三生家近くに設けられたものの、山口市立二島中学校の敷地内を経て[1]、山口市新山口駅の南口に移設された。[2]また、2006年に山口大学構内にも記念碑が設けられている。[3]

渡航時の年齢は、井上馨(28)・遠藤謹助(27)・山尾庸三(26)・伊藤博文(22)・井上勝(20)である。一方没年は、遠藤謹助(1893年57歳)・伊藤博文(1909年68歳)・井上勝(1910年66歳)・井上馨(1915年79歳)・山尾庸三(1917年80歳)。

身分は、正式な藩士である井上馨・井上勝・遠藤謹助に対し、伊藤博文・山尾庸三は武家奉公人の立場であった。渡航直前に両者は士分に取り立てられているものの、海外渡航は幕府により禁止されているため藩内では5人とも脱藩したことになっている。

2006年には、この5名の渡航前後の様子を描いた映画『長州ファイブ』が製作された。
渡航
留学を決意するまで

洋行は藩命だった、あるいは周布政之助の計画だったという説もあるが、実際は山尾と野村、そして二人とは別に井上が願い出て周布がそれを聞き入れ、藩主毛利敬親の名のもと許可が下りた、という形であった。ちなみに桂小五郎も洋行を願い出たこともあったが、すでに藩の要職にあったため、許可は下りなかった。


文久元年(1861)、箱館奉行所の武田斐三郎は、幕府の船亀田丸でロシアの沿海州航海計画を立てた。それを知った山尾は桂に頼み、小使い(雑用)として乗せてもらうことに成功した。亀田丸の船長北岡健三郎が、桂と山尾が通う練兵館斎藤弥九郎の弟だったからである[4]。4月に箱館を出航した亀田丸は、ニコライエフスク(ロシアのアムール河河口の町)まで行き、8月に無事、航海を終えた。この航海が、山尾の目を外国へ向けさせる第一歩となった。山尾はそのまま武田に師事し、武田が教授を務める諸術調所で語学・測量などを学んだ。その後江戸で大村益次郎に「海外へ出て見ると誠に利益がある。就てはどうか洋行したいものであるが」と相談、「それはむつかしい。もし易く行かれる様な機会があったならば、自分が行きたいと想ふて居るのだ。しかし好機会があったならば心配はしてやる」(『伊藤公実録』中原邦平・明治43年)と言質を得ている。山尾の実家は地域を治める庄屋で、大村の実家は山尾の実家の隣村の村医者であり、山尾の父親と大村の父親は交流があった。

一方野村は、安政5年(1858年)に長崎で長崎海軍伝習所教官のファン・トローエンから兵学を学び、安政6年(1859年)に江戸に出て蕃書調所で航海術などを学び、万延元年(1860年)から文久元年(1861年)まで箱館の武田に師事し航海術と英語の取得に励んだ。一旦は養父に呼び戻されるも、文久2年(1862年)に再び江戸に到着、横浜の外国人居住地での英語学習や、長州藩邸での勉強会(講師は大村益次郎)に参加した。

文久3年(1863年)3月、長州藩が購入した癸亥丸の船長を野村が、測量方を山尾が務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行することになった。この時、京都にいた世子毛利元徳が帰藩のため癸亥丸に乗船予定であったが、操船に不安があったため、京都の長州藩邸の役人は庚申丸を選び、癸亥丸を随従させるという決定を下した。自らの操船に限界を感じた二人は、留学への思いを強めることになった[5]。帰藩した山尾と野村はただちに洋行留学の願いを出し、陸路で京都に向かった。

また井上は、安政2年(1855年)10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い江戸に入り、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。文久2年(1862年)から尊王攘夷運動に共鳴、同年12月の英国公使館焼き討ち事件に参加するが、文久三年(1863)正月から京都で世子毛利元徳の小姓役となり、久坂玄瑞山県半蔵が長州藩に招聘しようとして断られた佐久間象山の話を聞き(実際に面会したわけではない)、「人材を海外に派遣すべし」とする論には大いに心が動かされ、「外国に出て海軍のことを研究して日本に海軍を興そう」と決心した。井上はその志を藩主毛利敬親に密かに打ち明けたものの「かようなことを予に直接、願うものではない」(=反対はしないが、しかるべき手順を踏め)と井上に告げた。そこで、周布・桂ら藩幹部や高杉晋作・久坂ら攘夷運動同志に相談し、久坂らには反対されたものの、「攘夷のための留学」と説得した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef