長嶋茂雄
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長嶋 茂雄 / 長島 茂雄文化勲章受章に際して
公表された肖像写真
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市
生年月日 (1936-02-20) 1936年2月20日(88歳)
身長
体重178 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手
プロ入り1958年
初出場1958年4月5日
最終出場1974年10月14日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


千葉県立佐倉第一高等学校

立教大学

読売ジャイアンツ (1958 - 1974)

監督・コーチ歴


読売ジャイアンツ (1972 - 1980, 1993 - 2001)

日本代表 (2003 - 2004)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1988年
選出方法競技者表彰
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長嶋 茂雄または長島 茂雄[注 1](ながしま しげお、1936年昭和11年〉2月20日 - ) は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・監督読売ジャイアンツ終身名誉監督株式会社読売巨人軍専務取締役日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長。
概要週刊ベースボール』1959年1月14日号の表紙を飾る長嶋茂雄

愛称は「ミスタープロ野球」「ミスタージャイアンツ」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」他。血液型はB型[1]

同時代に活躍した王貞治とはともに「ON砲」として称され、2人のバッティングは巨人のV9に貢献した。日本プロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初である。NPB最多記録となる最多安打を10回獲得しセ・リーグ最多記録となる首位打者を6回獲得した。

巨人軍4番出場試合数2位(川上哲治に次ぐ)。

2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役終身名誉監督[2]

2013年に国民栄誉賞を受賞、2021年にプロ野球界初となる文化勲章を受章した[3]
氏名

苗字の表記には「長嶋」と「長島」の2種類があり(嶋は島の異体字)、どちらも時期によって本名として正式に使用されていた。

出生時の戸籍上の表記は「長嶋」で、プロ入り前はそれに従って「長嶋」と表記するメディアと当用漢字に置き換えて「長島」と表記するメディアが混在していた[4]。しかし、1958年のプロ入りの際に記者クラブと本人の合意により、報道の際は表記の簡単な「長島」で統一することに決まった[4]。本人も、入団当初は「長嶋」を使用していたが、その後は現役中一貫して「長島」をサインに使用するようになった[5]。また、『巨人の星』や『ドカベン』などの創作物でも長島表記が使用されていた。

一方、球団側の担当者によれば、現役時代の球団の公式名簿では1964年から1965年のみ新聞社の要望により「長島」表記を使用していたが、その他の年度は「長嶋」表記にしていたという[5]。実際に、球場のスコアボードでは「長島」だけでなく「長嶋」を使用したこともあり、引退試合の後楽園球場でも「長嶋」表記だった[6]

引退後、1992年に二度目の監督就任が決まった際に、本人の要望により、報道でも「長嶋」表記が採用されることになった。しかし、1999年にゲン担ぎのために現役時代に広く知られていた「長島」に改名しており[4]、読売新聞社によれば、その時点で戸籍上の本名が「長島」になっているという[7]。このため、2021年に文化勲章を受章した際には、文部科学省大臣官房人事課の発表で本名「長島」と表記され、芸名等として「長嶋」が併記されていた。

以下、本記事では便宜上「長嶋」表記に統一して解説する。
経歴
生い立ち

1936年2月20日千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に生まれた。父は「利(とし)」、母は「チヨ」。兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子である。生家は農家だったが[注 2]、土地は貸し出し、父は臼井町役場の収入役助役をしていた[8]。父は在所の世話役だけに短気ではなく、母は意志が強いしっかり者だった[8]

幼少時代、東急フライヤーズの青バットこと大下弘大阪タイガース藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる[9]。藤村への憧れから、当時の関東在住者としては珍しく、幼少期は阪神ファンだった[10]。小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。また、グラブも母親の手縫いのもので[11]、初めて握ったバット青竹を割った手製のものであった[12]

小学校6年生の時に兄が所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団した。兄の下で遊撃手として育てられた。
中学時代

中学は臼井二町組合立中学校(現:佐倉市立佐倉中学校)に入学し、長嶋は野球部に入部した。

中学3年間は同じ担任の先生であり、卒業時にはタンスをプレゼントされたほど生徒から慕われていたが、一人の生徒が選手のブロマイドを持ってきたことが発端となって激怒したことがある。以前生徒へのアンケートで将来の希望を書かせたらほとんどが「プロ野球選手」と書かれているのを見て、あまりに野球に熱中する姿に「もっと将来を現実的に考えろ」と生徒全員を机の上に正座させた。後年になってその先生は、「長嶋がプロ野球の大スターになるとは思わなかった。子供の夢を頭ごなしに否定してはならない」と反省したという[13]
高校時代

1951年4月、県内トップの進学校で甲子園出場経験もある千葉県立千葉高等学校の入学も考えたが、地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校(現・千葉県立佐倉高等学校)に進学する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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