凡例長崎高資
時代鎌倉時代末期
生誕不明
死没元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日)
改名資?(初名)[1]→高資
別名新左衛門尉
幕府鎌倉幕府 評定衆
主君北条高時
氏族長崎氏
父母父:長崎円喜
兄弟高資、高貞、安達高景室
子高重[2]、新右衛門、高依
長崎 高資(ながさき たかすけ)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家の被官である御内人・内管領。長崎円喜の嫡男[3]。鎌倉幕府の実権を握って父と共に権勢を振るった。 正和5年(1316年)頃[1]、父・円喜から内管領の地位を受け継ぎ幕府の実権を握った。『保暦間記』によれば、鎌倉後期の1268年頃から始まる奥州津軽地方での蝦夷反乱に関連して、1318年頃に蝦夷管領(蝦夷代官
生涯
1325年(正中2年)になって、得宗家は蝦夷代官職を季長から季久に替えたが、戦乱は収まらず、その後も季長は得宗家の裁定に服さず、戦乱は収まらなかったため、後世に成立した史書においては、エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解もある。
嘉暦元年(1326年)には、出家した執権北条高時の後継をめぐり得宗家外戚の安達氏と対立し、高資は高時の子邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族庶流の金沢貞顕を執権としたが、高時の弟泰家らの反対により貞顕はまもなく辞任して剃髪、赤橋守時を執権とした(嘉暦の騒動)。嘉暦元年時点で、それまで御内人が就任する事はなかった幕府の評定衆となっている(『金沢文庫古文書』)。
元弘元年(1331年)には高資の専横を憎む高時はその排除を図ろうとしているという風説が広まり、高資の叔父とされる長崎高頼等、高時側近が処罰される。高時は自らの関与を否定し処分を免れたが、権力を極めた高資に対しては得宗家であっても無力であった。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞に鎌倉を攻められた際、自害した父の円喜や子の高重とは対照的に高資の最期についての記述が『太平記』には記載されていないものの、北条一族と最期を共にしたと考えられる。
画像集
長崎長昌院(静岡県伊豆の国市長崎171長崎円喜盛宗(高綱)開基)
原木駅、名所観光案内板(こちらには長崎長昌院(長崎次郎高資の墓)の案内あり)
長崎高資?長崎円喜盛宗(高綱)?五輪塔(現住職談、開基・長崎氏との関係は間違いない)
脚注[脚注の使い方]^ a b 「高資」は北条高時の偏諱を受けた後の諱であり、高時の元服(延慶2年(1309年)1月21日)以前は別名を名乗っていたとされ、延慶3年(1310年)3月8日付「得宗家公文所奉書」(『明通寺文書』、『鎌倉遺文』31巻 23932号)の奉者第一位に記される「資□」(二文字目は欠字のため不明)がこれに相当すると考えられる。第二位の「時綱」は尾藤時綱(演心)と推定され、正和5年(1316年)閏10月18日付の「得宗家公文所奉書」(『摂津多田神社文書』、『鎌倉遺文』34巻 26002号)でも高資に次いで第二位を務めているので、「資□」がのちの高資と同様の役割を果たしていたことになる。よって「資□」は高資の改名前の名であり、のちに高時より一字拝領したと考えられる。この推定が正しければ、高資が得宗家執事(内管領)を継承した時期は延慶3年(1310年)3月8日以前となる。以上は、細川・2000年・P.184 脚注(73)による。尚、一貫して用いられている「資」の字は、祖先と仰ぐ平資盛に肖ったものと推測される(参考:細川重男 「飯沼大夫判官と両統迭立」 )。
^ 『系図纂要』の「長崎氏系図」では、高重は兄・高貞の子に位置付けられており、高資の子は「高直」(新左衛門尉)と記載されている。
^ 『系図纂要』の「長崎氏系図」では高綱(円喜)の次男(高貞の弟)に位置付けられており、細川重男の論文「得宗家執事長崎氏」(参考文献参照)ではこの説を採用しているが、高貞について、『鎌倉殿中問答記録』の文保2年(1318年)9月15日の記事で「高資の弟、四郎左衛門」とあり、『保暦間記』にも北条治時と共に出家した(本文参照)人物として挙げられる「長崎四郎左衛門尉」の付記に「円喜子 高資弟」とあることから、高資の方が年長であったと考えられる。
参考文献・史料
佐伯真一・高木浩明 編著『校本 保暦間記』〈重要古典籍叢刊2〉(和泉書院、1999年)
細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)第一部 第四章 「得宗家執事長崎氏」
関連作品
太平記(1991年、NHK大河ドラマ、演:西岡徳馬)
外部リンク
ホトカミ 長昌院こちらでは開基・五輪塔は長崎円喜盛宗(高綱)
表
話
編
歴
内管領
尾藤景綱
平盛綱
沙弥右蓮
諏訪盛経
平頼綱
長崎光綱
工藤杲暁
平宗綱
尾藤時綱
北条宗方(内執権)
長崎円喜
長崎高資