長崎高貞
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 凡例長崎高貞
時代鎌倉時代末期
生誕未詳(延慶2年(1309年)以前か?)
死没建武元年3月21日1334年4月25日)/7月9日1334年8月9日)?
別名四郎左衛門(尉)
幕府鎌倉幕府侍所所司・軍奉行
主君北条高時
氏族桓武平氏長崎氏
父母父:長崎円喜
兄弟高資、高貞、女子(安達高景室)
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長崎 高貞(ながさき たかさだ)[1]は、鎌倉時代後期の武将執権北条氏家臣鎌倉時代後期から末期にかけて北条得宗家内管領として権力を振るった長崎円喜の子で、長崎高資の弟[2]。通称は四郎左衛門(尉)。の「高」の字は主君である北条高時偏諱とみられる[3]
生涯

延慶2年(1309年)、父・高綱(円喜)の出家に伴って侍所所司を継いだとされている[4]

元弘元年/元徳3年(1331年)、鎌倉幕府軍の軍奉行・侍所所司として上洛後醍醐天皇が立て籠もる笠置山を攻めた。

正慶2年/元弘3年(1333年)には、北条治時に従って平野将監入道楠木正季(正成の弟)が籠城する上赤坂城を落とし(上赤坂城の戦い)、その後楠木正成が立て籠もる千早城を攻めたが(千早城の戦い)、同年5月に同城包囲中に六波羅探題陥落・滅亡を知り、元弘3年(1333年)6月5日に治時と共に出家して建武政権に降伏した[5][6]

建武元年(1334年)3月21日[7]京都阿弥陀峯で治時、大仏貞宗大仏高直とともに斬首された[5][6]。『太平記』では斬首の日が同年7月9日となっており[5][8]、他の史料でも3月21日(『梅松論』・『蓮花寺過去帳』)、4月(『保暦間記』)、5月(『系図』)など時期が一致しないものが多い[6]
脚注[脚注の使い方]^ 『楠木合戦注文』では、高貞に比定する人物を「長崎四郎左衛門高真」と表記しているが、他史料では確認できないことから字形の似た「貞」と「真」の字を違えて表記したものと思われる。
^系図纂要』の「長崎氏系図」では高資の兄に位置付けられており、細川重男の論文「得宗家執事長崎氏」(参考文献参照)ではこの説を採用しているが、『鎌倉殿中問答記録』の文保2年(1318年9月15日の記事で「高資の弟、四郎左衛門」とあり、『保暦間記』にも北条治時と共に出家した(本文参照)人物として挙げられる「長崎四郎左衛門尉」の付記に「円喜子 高資弟」とあることから、高資より年少であったと考えられる。
^ 細川重男は長崎高綱(円喜)・高資の「高」の字を高時の偏諱と推測しており(論文「得宗家執事長崎氏」)、高貞についても同様のことが言えるものと考えられる。
^ 細川、2000年、P.171?172。
^ a b c 『北条氏系譜人名辞典』P.118 「長崎高貞」の項(執筆:森幸夫)。
^ a b c 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.542 「北条高直」の項(執筆:奥富敬之)より。
^ 「近江国番場宿蓮華寺過去帳」による(『北条氏系譜人名辞典』P.118)。
^ 『太平記』巻十一「金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事」

参考文献

網野善彦『蒙古襲来(上・下)』(小学館『日本の歴史 第10巻』所収、1974年/小学館ライブラリー、1992年/上下合冊で小学館文庫)

佐伯真一・高木浩明 編著『校本 保暦間記』〈重要古典籍叢刊2〉(和泉書院、1999年)

細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)第一部 第四章 「得宗家執事長崎氏」

北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001年)

鎌倉殿中問答記録』(『改定史籍集覧』第27冊、臨川書店

関連項目

千早城の戦い


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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