長崎県立長崎東中学校・高等学校
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長崎県立長崎東中学校・高等学校
長崎県立長崎東中学校・高等学校校門前
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度45分37.3秒 東経129度52分35秒 / 北緯32.760361度 東経129.87639度 / 32.760361; 129.87639座標: 北緯32度45分37.3秒 東経129度52分35秒 / 北緯32.760361度 東経129.87639度 / 32.760361; 129.87639
国公私立の別公立学校
設置者長崎県
併合学校長崎県立長崎高等学校
長崎県立長崎女子高等学校
長崎県立瓊浦高等学校
長崎市立女子高等学校
設立年月日1948年昭和23年)11月1日
共学・別学男女共学
中高一貫教育併設型
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
国際科
学期3学期制
学校コードC142210001613 (中学校)
D142210000015 (高等学校)
高校コード42101E
所在地850-0007
長崎県長崎市立山5丁目13番1号
外部リンク ⇒公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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長崎県立長崎東中学校・高等学校(ながさきけんりつ ながさきひがしちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、長崎県長崎市立山5丁目にある併設型公立中高一貫校。略称は「東中」(ひがしちゅう)[注 1]、「東高」(ひがしこう)。
概要学校へ登る道路の中央にはクスノキが立っている。
テレビ朝日系列の「ナニコレ珍百景」でも紹介されたことがある。
歴史
長崎東高等学校は1948年昭和23年)の学制改革により、戦前の旧制中学校高等女学校を前身とする県立高校3校と市立高校1校、計4校が統合されて、長崎県立長崎西高等学校とともに開校した[注 2]。校舎は開校当初、西山[注 3] にあったが、県道235号の拡張工事のため、1976年(昭和51年)に長崎市街と長崎港を眺望する金比羅山中腹に現校舎を建設し、移転を完了した。またかつて入試で総合選抜を行っていた長崎五校(東高、南高、西高、北高、北陽台高)の中の1校でもある。2004年(平成16年)4月に長崎東中学校を併設し、中高一貫校を開始した[注 4]。校舎は高等学校と共用である。
組織
長崎県の規則[1] 上は中学校と高等学校とで別個の学校であるが、校地・校舎は共用、校長・事務局長は兼務、PTAは両校一体で組織されている。
設置課程・学科(高等学校)
全日制課程 2学科

普通科

国際科
大半の生徒が四年制大学をはじめとする上級学校への進学を目的としている。高校1年次で速修クラスと総合クラスに分かれ、2年次からは一類・二類・三類と進路別クラス編成となり、難関大学を目指す特進クラスも設置されている。また2015年(平成27年)に国際科が新設された。普通科と国際科はくくり(一括)募集され、1年次は両学科混成・均質のクラスが編成され、2年次から普通科と国際科に分かれる。
学区・定員

高等学校


学区 - 県南学区(長崎市、西彼杵郡西海市)。調整区域として、県央学区の諫早市立琴海中学校区からも出願・受験・通学可。下宿生徒もいる。

定員 - 1学年あたり280名(併設中学校の進学者を含む)

中学校


学区 - 全県学区(長崎県内全域)保護者の住所が長崎県にある者か、入学時に保護者が長崎県に居住する見込みの者[2]

定員 - 1学年あたり120名

校訓
高等学校創立当初より校訓はないが、長崎県公立高校基準紹介として、地域の担い手となる人材育成を目指している。

スローガン - 「ここに集え!憧れを抱く者 志に燃える者 ともによき世を創るために」[2]

合言葉 - 「東の3C」[3]( Chance (機会)・Challenge (挑戦)・Change (変化))・「『ひがし』は一つ」

学校教育目標 - 「一人ひとりの生徒が輝く『日本一の学校づくり』」

校章
長崎を象徴する「鶴」[注 5] をモチーフに高校は「東高」の縦文字、中学は「東中」の縦文字を置いている。
校歌
中高共通の校歌である。作詞は島内八郎、作曲は伊藤英一による。歌詞は3番まであり、各番とも「東、東、光あり」で終わる。3番の歌詞には「西山」が含まれているが、西山町から立山へ移転した現在も歌詞は変わっていない。
制服
男子の冬服は学生服(学ラン)、女子の冬服ブレザー・リボン(リボンは中学生のみ)。学校ジャージの色は藍色
昼食
中学校も高校も給食ではなく、弁当持参か購買部での弁当類・パンの購入となる。購買部では食品以外に、文房具や制服関係も取り扱っている。東中高オリジナルのクリアファイルもある。
沿革
前史

長崎県立長崎中学校(旧制中学校, 男子校)


1858年安政5年) - 長崎奉行支配組頭の永持亨次郎によって江戸幕府直轄の「英語伝習所」を創立。

場所 - 官邸の岩原屋敷(現在の長崎歴史文化博物館がある場所)

その後、「英語所」、「語学所」、「洋学所」と改称。


1865年慶応元年) - 新町に校舎を新築し、「済美館」と改称。

1868年明治元年) - 明治政府直轄となり、「広運館」と改称。

1872年(明治5年) - 学制が公布され、官立(国立)の「第六大学区第一番中学校」と改称。

その後、「第五大学区第一番中学校」、「広運学校」、「長崎外国語学校」、「長崎英語学校」と改称、移転が続く。


1878年(明治11年) - 願い出により長崎県へ移管され、「長崎県立長崎中学校」と改称。

邦学部・英語学部・植物学部・清語学部の4学部から成る。橘周太陸軍中佐をはじめとする軍人要人を輩出。


1882年(明治15年)7月 - 欧化政策の影響により、邦学部を廃止し、再び「長崎外国語学校」と改称。

1884年(明治17年)

4月 - 前年1883年(明治16年)に長崎県が佐賀県と長崎県に分県された影響を受け、長崎外国語学校を分割し、「長崎県中学校」と改称。

その後、「長崎県尋常中学校」、「長崎県長崎中学校」と改称。

6月4日 - 「長崎県立長崎中学校」が開校。


1913年大正2年)7月 - 長崎市鳴滝に長崎県立長崎中学校校舎を新築し、移転。設計は山田七五郎による。


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