日本の政治家長崎 幸太郎ながさき こうたろう
内閣府地方創生推進室より公表された肖像
(山梨県知事時代 撮影)
生年月日 (1968-08-18) 1968年8月18日(55歳)
出生地 日本 東京都
出身校東京大学法学部
コーネル大学ロー・スクール
前職国家公務員(大蔵省・財務省)
現職山梨県知事
所属政党(自由民主党→)
(無所属→)
自由民主党(二階派)
称号法学士
配偶者有
公式サイト ⇒長崎幸太郎後援会
第19・20代 山梨県知事(公選)
当選回数2回
在任期間2019年2月17日 - 現職
衆議院議員
選挙区(比例南関東ブロック→)
山梨2区
当選回数3回
在任期間2005年9月11日 - 2009年7月21日
2012年12月18日[1] - 2017年9月28日
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長崎 幸太郎(ながさき こうたろう、1968年8月18日 - )は、日本の政治家、大蔵・財務官僚。山梨県知事(2期)、自由民主党山梨県連常任顧問。
衆議院議員(3期)、自由民主党幹事長政策補佐などを歴任した。 東京都出身。小さな商店を営む父[6]と母(山梨県西八代郡市川三郷町出身)の間に誕生した[7]。 開成高等学校、東京大学法学部卒業(ゼミは租税法[8])。1991年、大蔵省(現:財務省)に入省した(配属先は銀行局調査課[9])。1994年、アメリカ合衆国コーネル大学ロー・スクール修了。2005年、財務省を退官[10]。 2005年の第44回衆議院議員総選挙に、山梨2区から自由民主党公認で出馬する。山梨2区選出で通商産業大臣や自由民主党総務会長を務めた自民党前職の堀内光雄は、郵政民営化法案の採決で反対票を投じ、自民党からの公認を得られず無所属で出馬[11]。長崎はその刺客として送り込まれた。結果、長崎は堀内に931票の僅差で敗れたが、重複立候補していた比例南関東ブロックで復活し、初当選した[12]。2006年12月、堀内光雄が自民党に復党(郵政造反組復党問題)。 2008年6月、自民党は山梨2区で復党していた堀内を公認し[13]、長崎は比例南関東ブロック下位への転出を党本部から求められたが、比例単独での立候補を拒否し、無所属で山梨2区から出馬する意向を表明した。これを受け、10月に長崎を支持する自民党山梨県連の党員66人が、山梨2区で堀内を公認した党本部の決定に反発し、集団で自民党を離党した[14]。長崎自身も2009年7月に自民党に離党届を提出し[15]、17日に離党が了承された。なお、同年7月14日の麻生内閣不信任決議案の衆議院本会議における採決は欠席している。7月18日には、長崎を支持する山梨県内の地方議員ほか、415人の党員が集団で自民党を離党した(長崎支持グループは当初3,648人にのぼる離党者の名簿を自民党山梨県連に届けたが、離党者名簿の中には、党とは関係ない人で名簿にも残っていない人、さらにすでに死亡している人や本人に離党の承諾を得ていないケースなどがあり、山梨県連の発表によれば、実際には415人)。これらのことについて長崎は「今後自民党とは一切かかわりたくないという『絶縁状』だ。党費を払っているかどうかの問題ではない」と話している。[16]長崎は無所属で第45回衆議院議員総選挙に山梨2区から出馬するが、次点で落選した(当選者は民主党の坂口岳洋。堀内も得票数3位で落選)。 2010年の第22回参議院議員通常選挙では、山梨県選挙区において自民党新人の宮川典子を支援したが、宮川は民主党現職の輿石東に敗れ、落選した。2011年11月、自身のホームページにおいて、自民党復党の手続きを取る考えを表明した[17]。
略歴
1987年 - 開成高等学校卒業[2]
1991年
東京大学法学部卒業
大蔵省(現:財務省)入省
1994年
米国・コーネル大学ロースクール修了
大蔵省主計局総務課調査主任[3]
1995年 - 大蔵省主計局総務課企画係長
1996年 - 大蔵省大臣官房文書課審査第一係長
1997年 - 在ロサンゼルス総領事館領事
2000年 - 金融庁総務企画局市場課課長補佐
2002年 - 山梨県企画部総合政策室政策参事
2003年 - 財務省主計局法規課 課長補佐
2004年 - 財務省主計局地方財政係主計官補佐
2005年 - 衆議院議員選山梨2区より南関東比例代表にて初当選(1期目)
2009年 - 衆議院議員選山梨2区にて次点
2012年 - 衆議院議員選山梨2区より小選挙区にて当選(2期目)
2013年 - 志帥会政策委員長就任
2014年 - 衆議院議員選山梨2区より小選挙区にて当選(3期目)
2017年 - 衆議院議員選山梨2区にて次点
2019年
1月27日 - 第19回山梨県知事選挙当選[4]
2月17日[5]、第62代山梨県知事(公選19代)就任。
来歴