長岡安平
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長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日天保13年7月5日) - 1925年大正14年)12月20日[1])は、日本造園家作庭家。また茶人で、「祖庭」と号した。日本人初の公園デザイナー[2]

明治初期から大正にかけて東京府の公園係長などとして活躍。数々の名園を生み出した。明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニア。日本の近代公園の先駆者[3]
人物

1842年(天保13年)肥前大村藩として大村城下に生まれる[4]。小さい頃から病弱だったため、藩士の子息に課された武芸等は嗜まず、そのためもっぱら動植物を好み、飼育栽培等といった方面に才を見出していたという。

1870年(明治3年)郷土の先輩である楠本正隆に従って上京、1872年(明治5年)楠本が新潟県令に就任すると彼に従って新潟に赴く[5]。楠本は新潟時代、新潟遊園(現在の白山公園)の築造計画をしているので、多くの公園研究者は長岡がこの公園の築造に関係したものとしているが、関連記録等は残されていない。

楠本は1875年(明治8年)12月からは東京府知事に就任。長岡も1878年(明治11年)に楠本に従って上京する。東京府土木掛に嘱託され、明治6年太政官布告によって生み出された東京府立公園や街路並木の改良新設を行っていた。以後、生涯に渡り公園や街路の計画設計、樹木植栽、工事及び維持管理等に従事した[5]

東京市発足に伴い、府立公園は1898年(明治31年)東京府より東京市に引き継がれたため、長岡も東京市役所に転職。市役所でも公園の仕事に関係した。1900年(明治33年)にいったん辞して翌年再任。この間は特に1897年(明治30年)に設置された公園改良取調員会の元、東京市区改正事業に伴い設置予定していた日比谷公園の設計案の作成にあたっていた[6]。日比谷公園は結局本多静六らの設計によって1903年開園する。

1902年に逓信省営繕課に移り、逓信営繕が関わる諸官舎庭園の設計と監督指導に従事。1904年(明治37年)からは東京市嘱託になり、1914年まで東京市内の公園関係の職に従事した。つまり東京の公園業務には、1878年から1914年末まで40年間の長期にわたって関わった。1925年(大正14年)12月20日、芝白金三光町(現・港区白金台)の自宅において84歳で長逝する。墓地青山霊園にある。

長岡の住まいは長く旧芝公園内にあった[7]。旧居址の碑が東京市において長岡の部下として公園事業を手伝い、後に公園部長となった井下清らによって建てられたが、現在は消滅。

小林治人著『「設景」その発想と展開』では"長岡安兵衛"と記されている。

娘の夫に佐佐木茂索がいる[1]
設計思想

公園内に植える樹木や植物についてはその土地に適した「自然木」でなければならない、人の眼を楽しませる花弁花樹を必要とする、とした。地域の自然特色を生かす設計手法に努めた。また公園内の園路は主要なものは3-6間(5.45-10.91メートル)、細園路は1間(約1.82メートル)内外の幅員もたせること、坂道を設計する際は、かりに勾配が緩くても同一勾配を60間(1090.8メートル)以上続けてはならないので約30間(約545.4メートル)毎に2-3間(3.64-5.45メートル)以上の平地若しくは緩勾配地を置くこと、を述べている。さらに公園の設備については運動器具をとりいれること、また外柵を堅固にすることを強調している。また公園の設計には経営の方針を最初から考えるべきであるとした。材料では、特に石は安価な相豆石を好んだ。
庭園調査と設計

公園ばかりでなく公共庭園や個人庭園の設計まで依頼され、数多く作庭を行った。(以下、大15、「祖庭長岡安平翁造庭遺稿」より)

1899年(明治32年)

広島県安芸郡中野村医師島通修氏庭園設計
[8]

同県瀬戸田町得能氏庭園改築

1902年(明治35年)

逓信大臣官舎庭園設計嘱託

横手町斎藤万蔵氏別荘庭園改造[8]

根岸町長沼氏庭園設計

掛札右衛門氏邸庭園設計[8]


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