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長岡 和弘
ながおか かずひろ
出生名長岡 和弘
別名KAZ NAGAOKA
生誕 (1951-10-06) 1951年10月6日(72歳)
出身地 日本・長崎県大村市
学歴福岡大学卒業
ジャンルJ-POP
ポピュラー音楽
職業ベーシスト
音楽プロデューサー
担当楽器ベース
活動期間1974年 -(ベーシスト)
1980年 -(音楽プロデューサー)
レーベルPONY CANYON
HillValley Records
事務所1980年-1998年 CANYON MUSIC
1999年- JOMON
共同作業者甲斐よしひろ、大森信和、
松藤英男、石川ひとみ、武部聡志、
崎谷健次郎、斉藤由貴
公式サイト ⇒JOMON 長岡和弘の日記
長岡 和弘(ながおか かずひろ、Kazuhiro Nagaoka、1951年10月6日 - )は、日本のベーシスト・音楽ディレクター・音楽プロデューサー。長崎県大村市出身。血液型O型、身長168cm、体重47kg。福岡大学卒業。
1974年、甲斐バンドのベーシストとしてデビュー。1979年、シングル「HERO」が大ヒットするが、体調不良のために脱退。1980年、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)に入社し、制作ディレクターとして斉藤由貴、石川ひとみ、谷山浩子、中島みゆき、チャゲ&飛鳥、BaBeらを担当する。2000年、独立して制作会社のjomonを設立し、aiko、capusule、ベッキー、半崎美子など、多くのアーティストを手掛ける一方、映像音楽プロデューサーとしても『ラストソング』『リング』『らせん』など、数々の映画やアニメ作品に関わる。2013年、故郷の大村市に拠点を移し、ハウステンボスの社長付き顧問として音楽制作やイベントのプロデュースに従事する。2016年、「シーハットおおむら」の館長に就任し、音楽・文化・スポーツなどのイベント企画の開催・運営にも取り組んでいる[1]。 1970年代前半 『福大』フォークソング愛好会で井手雅英(後の「ピエロ」)と「リグビー」を結成 福岡のロック喫茶・『照和』に出入りしていたアマチュア時代は、大森信和と「筑前」「新撰組」というバンドを組んで活動していた。 甲斐よしひろ・大森・松藤英男とロックバンド『甲斐バンド』を結成し、シングル「バス通り」でベーシストとしてデビューする。 シングル「HERO」が大ヒットするものの、体調不良のため10月5日に脱退した。 斉藤由貴の音楽プロデューサーを務め、以降も作品制作に関わる。 1990年代以降 独立し、レーベル・JOMONを立ち上げる。WOWOWのテレビドラマ『天然少女萬NEXT-横浜百夜篇』の音楽プロデューサーを務める。 崎谷健次郎のアルバム『SOUL ARCHEOLOGY』では、音楽プロデューサーを務めている。アルバム発表にあたって、長岡と崎谷はインディーズ・レコードレーベル『HillValley Records』を起ち上げた。このレーベルは、長岡の「岡」と崎谷の「谷」から採って合名したものであり、このアルバムが最初のタイトルとなった。 崎谷が音楽担当する映画の音楽プロデューサーを務めている。
来歴
人物
1980年代以降、ポニーキャニオンでの音楽プロデューサー活動では、在籍したアーティストである斉藤由貴、崎谷健次郎、谷山浩子らとの親交が深い。
1980年代後半、頂点を極めていた斉藤由貴のアルバム制作を手がけているという話を甲斐よしひろが聞いて「なんでその才能を甲斐バンドで使ってくれなかったのか(笑)」と語った。
1989年、斉藤由貴のアルバム『age(アージュ)』発表時、プロデュースした崎谷健次郎と斉藤の対談の司会を長岡が務めた[2]。
楽曲提供
甲斐バンド 「きんぽうげ」「汽笛の響き」「一日の終り」(作詞)
手がけたアーティスト
aiko
ASKA
石川ひとみ
伊丹哲也
岩崎良美
植村花菜
浦部雅美
甲斐よしひろ
かとうれいこ
capsule
京田未歩
小林千絵
斉藤由貴
酒井法子
崎谷健次郎
John Hoon
スージー松原
高井麻巳子
田中陽子
谷山浩子
チャゲ&飛鳥
塚本高史
中島みゆき
新妻聖子
西田ひかる
半崎美子
ヒナタカコ
藤田恵美
フローレンス(芳賀)
BaBe
ベッキー
堀川早苗
まきちゃんぐ