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長岡 半太郎
(ながおか はんたろう)
長岡半太郎
生誕1865年8月19日(慶応元年6月28日)
日本・肥前国大村藩
(現・長崎県大村市)
死没 (1950-12-11) 1950年12月11日(85歳没)
日本・東京都文京区西片町
研究分野物理学
研究機関東京帝国大学
理化学研究所
大阪帝国大学
出身校帝国大学
主な業績土星型原子モデルの提唱
主な受賞歴文化勲章(1937年)
プロジェクト:人物伝
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国立科学博物館のレリーフ
長岡 半太郎(ながおか はんたろう、1865年8月19日〈慶応元年6月28日〉 - 1950年〈昭和25年〉12月11日)は、日本の物理学者。
土星型原子モデル提唱などの理化学の向上に貢献した。また、東京帝国大学教授として多くの学生を指導し、初代大阪帝国大学総長や帝国学士院院長などの要職も歴任した。
1937年(昭和12年)、第一回文化勲章受章。正三位勲一等旭日大綬章追贈。
本多光太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。
生涯
幼少期と学生時代の一人息子として生まれ、幼少期には大村藩藩校五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ。
長岡家は1874年(明治7年)に上京し、半太郎は本郷区湯島小学校に入学。小学校では成績が悪かった方で、落第したこともあった[注釈 1]。共立学校(現:開成中学校・高等学校)から東京英語学校(東京大学予備門)に進学。父治三郎の転勤などに伴い、大阪英語学校(大阪専門学校)に転校後、東京大学予備門に再入学している。
1882年(明治15年)9月に東京大学理学部(1886年から帝国大学理科大学)に進学。在学中、1年休学している。休学中は、東洋人(日本人)に欧米人に劣らない独創的見識があるのかについて悩み、漢学の道に進むことも考えていた。物理学科に進んでからは、教授山川健次郎や助教授田中舘愛橘、イギリス人教師ノットのもとで学んでいる。 1887年(明治20年)に大学院に進学後、そのまま大学に残り1890年(明治23年)に助教授就任。1890年9月、磁気歪を研究してニッケル線に圧と捩りを与えると反磁性化することを確定した[1]。1892年7月25日、田中館愛橘と長岡は「濃尾地震に伴ふ等磁力線の変位」を発表[2]。1902年8月4日、長岡と本多光太郎は「鋼、Ni、Co、Ni鋼の磁歪」を発表[3]。 1893年(明治26年)から1896年(明治29年)にかけドイツ帝国に留学し、ルートヴィッヒ・ボルツマンのもとで学ぶ。帰国後、教授に就任。以来、1926年(大正15年)に60歳で定年退職するまで東京帝国大学(1897年に帝国大学から改名)教授を勤めた。 東京帝国大学教授を定年退職したあとも理化学研究所主任研究員として研究を続ける一方で、次の要職を歴任した。 その間、1937年に第一回文化勲章を受章している。 長岡は1939年(昭和14年)、スウェーデンのノーベル委員会に湯川秀樹への授賞を推薦している。この推薦は第二次世界大戦を挟んだ10年後の1949年(昭和24年)に実り、湯川は中間子理論が認められて日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した。 1892年(明治25年)に箕作麟祥の三女・操子と結婚し、3男1女をもうけた。長男治男は理化学研究所理事長、次男正男は日本光学工業社長を勤め、長女は半太郎の弟子岡谷辰治 妻・操子が1902年(明治35年)に亡くなるとまもなく、平川登代と再婚。登代との間には5男をもうけた。五男・嵯峨根遼吉は実験物理学者、八男・長岡振吉は、工作機械技術者(オークマ常務取締役、豊橋技術科学大学教授を歴任)[4]。 1950年12月11日、脳出血のため文京区西片町の自宅で死去[5]。満85歳。死の当日も地球物理学の本を広げて研究を続けていた。葬儀は本人の意思により、神式にも仏式によらず同月16日に行われた[6]。 長岡は大学院時代から磁歪の実験研究に取り組み、並行して回折の数理物理学的な研究も行った。また、地震や地球物理学の研究にも携わり、地磁気の測量、流星による電波の散乱の報告[7]などをしている。その後、研究の対象は原子構造論や分光学、水銀還金などに広がった。
東京帝国大学教授
要職の歴任
1931年-1934年 初代大阪帝国大学総長
1934年-1947年 貴族院議員(帝国学士院会員議員)
1939年-1947年 日本学術振興会理事長
1939年-1948年 第13代帝国学士院院長
家族
最期
業績
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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