長屋王
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長屋王
長屋王像(南法華寺蔵、江戸時代)
時代飛鳥時代 - 奈良時代
生誕天武天皇5年(676年)か13年(684年
薨去神亀6年2月12日729年3月16日
墓所大和国生駒郡生馬山
現・奈良県生駒郡平群町梨本(宮内庁治定)
官位正二位左大臣
父母父:高市皇子、母:御名部皇女
兄弟長屋王、鈴鹿王門部王山形女王河内女王
吉備内親王藤原長娥子、安倍大刀自、石川夫人
膳夫王桑田王葛木王、鉤取王、安宿王黄文王山背王
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長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ)は、奈良時代前期の皇親政治家太政大臣高市皇子長男官位正二位左大臣皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟陰謀といわれる長屋王の変自殺した。
出自

大宝選任令蔭叙年齢規定によって大宝4年(704年)の初叙時の年齢を21歳として天武天皇13年(684年)誕生説が有力であったが[1]、『懐風藻』の記事にある享年54歳に基づき天武天皇5年(676年)とする説もある[2]。父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。

また、長屋王の祖母は蘇我姪娘であり、自身の配偶者には同じく蘇我姪娘を祖母に持つ吉備内親王と、石川虫麻呂の娘の石川夫人、藤原不比等の娘の藤原長娥子がいた。つまり長屋王家は、長屋王自身や吉備内親王の即位の可能性のみならず、将来何らかの事情で皇位継承者が首皇子から他の皇統に移動した場合、蘇我系皇族腹、蘇我氏腹、藤原氏腹という考えうる3通りの選択肢を全て備えており、まさに次期皇位継承者としてふさわしく、不比等亡き後の藤原氏の恐怖と猜疑の対象となっていた[3]。長屋王一家が自死を迫られた際に葬られたのが、長娥子所生の皇子以外であったのは、藤原氏の野望を阻む対手がこれらに限られたためである[3]。なお、この問題に関して、本当に長屋王家に恐怖と猜疑を抱いていたのは、藤原氏ではなく首皇子(聖武天皇)であったとする見解もある[4]
経歴

大宝4年(704年無位から正四位上に直叙される。通常の二世王の蔭位従四位下であるが、三階も高い叙位を受けていることから、天武天皇の皇孫の中でも特別に優遇されていたことがわかる。和銅2年(709年従三位宮内卿に叙任されて公卿に列す。和銅3年(710年式部卿に任ぜられるが、式部卿在職時に官人の人事考第に関して、以下の施策が打ち出されている。

和銅4年(711年)7月:諸司の怠慢により律令がなかなか施行することができない状態にあるため、律令に違反したにもかかわらず、官人の考第(考課の評定等級)を正しく取り扱わない場合処罰する。

和銅6年(713年)4月:式部省は官人の考課・選叙が任務でありその責任は他の省より重いとして、式部卿不在時に官人の勲績を議論することを禁止[5]

霊亀2年(716年)には正三位に叙せられる。霊亀3年(717年左大臣石上麻呂薨去すると、翌養老2年(718年)長屋王は参議中納言を経ずに一挙に大納言に任ぜられ、太政官右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。正四位上と言う高位の初叙およびこの異例の昇進が実現した理由については、以下の諸説がある。

父である高市皇子皇太子としての待遇を受けていたため(従来の説)

皇親制や位階制などが始まって間もない試行錯誤期における天武天皇皇孫の扱いという課題の存在があり、その最初の適用ケースでかつ高市皇子の長男かつ天智天皇の孫という特に有力な血筋であったことが重なり、結果的に後世の常識から見ると異例の待遇となった(寺崎保広[6]

妻の係累にあたる元正天皇吉備内親王の姉)と藤原不比等(藤原長娥子の父)という二人の有力者の意向によるもの。血統の良さもさることながら、優れた政治的能力を期待され、藤原不比等も長屋王を政治家として育成を図ろうとしていた(森田悌[7]。また、元正天皇は即位前に吉備内親王と同居していたらしく[8]、その夫である長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。

長屋王政権

養老4年(720年)8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年(721年)正月に長屋王は従二位右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟武智麻呂房前宇合麻呂)はまだ若く、議政官中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事舎人親王とともに皇親勢力藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す[7]

養老5年(721年)3月:水害干魃に起因する貧窮対策として、平城京および畿内の公民に対して1年間の調を免除し、他の七道諸国の公民に対しても同様に夫役を免除する[9]

養老5年(721年)6月:前年度発生した隼人蝦夷の反乱鎮圧のための兵役の負荷軽減対策として、陸奥筑紫の公民に対して1年間の調・を免除する。戦場で死亡した者は、その父子ともに1年間の租税を免除する[10]

養老6年(722年)2月:諸衛府衛士の役務期間が長すぎて逃亡が相次いでいたことから、勤務年限を3年とし必ず交替させる[11]

養老6年(722年)閏4月:陸奥按察使管内の公民の調・庸を徐々に免除して、農耕養蚕を勧奨して、を習得させる。


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