長尾_(川崎市)
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長尾
町丁
藤子・F・不二雄ミュージアム
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度36分33秒 東経139度34分40秒 / 北緯35.609214度 東経139.577764度 / 35.609214; 139.577764
日本
都道府県 神奈川
市町村 川崎市
行政区多摩区

人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1]
 人口9,709 人
 世帯数4,888 世帯

面積[2]
 1.145452207 km²
人口密度8476.13 人/km²
標高14 m
設置日1975年昭和50年)2月1日
郵便番号214-0023[3]
市外局番044(川崎MA[4]
ナンバープレート川崎
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長尾(ながお)は、神奈川県川崎市多摩区町名。現行行政地名は長尾1丁目から長尾7丁目で、住居表示実施済区域[5]。面積は全域で1.145km2[2]
地理

多摩区の南東部に位置する。二ヶ領用水(新川)と府中街道神奈川県道・東京都道9号川崎府中線)が域内を横断しており、これを境界として、北側の低地は「河内長尾」(こうちながお)と、南側の丘陵地帯は「谷長尾」(やとながお)という呼び名があり、新編武蔵風土記稿にも記された[6]ほか、平成に至ってもなお通称として使われている[7]。一帯は住宅地となっているが、観光目的の果樹園も残っている[7]。また、2丁目にはかつて向ヶ丘遊園が所在したが閉園となり、跡地に藤子・F・不二雄ミュージアムが開設されたほか、残る山林やばら苑は生田緑地に組み込まれる計画となっている。

長尾は北端で宿河原と、東端で高津区上作延と、南端では宮前区五所塚神木本町と、西端では東生田と接している(特記のない町域は多摩区)。
地価

住宅地の地価は、2024年令和6年)1月1日公示地価によれば、長尾1丁目8-15の地点で23万2000円/m2となっている[8]
歴史

当地からは旧石器時代の石器や縄文弥生時代の遺跡が発掘される[9]など、古くから人が暮らしていた土地であり、平安時代の創建と伝わるほか、鎌倉時代には源頼朝の弟である全成が院主となった「威光寺」[10]も所在していた(現存する妙楽寺は、威光寺の塔頭であった[7])。ただし、これらはすべて丘陵地帯(谷長尾)の側にあり、のちの河内長尾は多摩川の流路となっていた[7]

戦国時代には、北条氏康による印判状が「長尾百姓中」宛に出された[11]ほか、「小田原衆所領役帳」にも「稲毛長尾村」の形で登場する[12]など、後北条氏の領地であった。その後、小田原征伐に先立ち、豊臣秀吉から「長尾村」などに禁制が出されている[12]

江戸時代の初期には旗本の村上氏・大河内氏・木造氏の三給の地となるが、のちに天領となっている[12]。多摩川の流れが北へ移ったことで河内長尾の地が生まれ、二ヶ領用水も作られて新田開発もなされたが、もともと多摩川であった土地のため、氾濫にたびたび襲われた[7]。農地としては田より畑が多かったが[11]、谷あいに棚田も作られた[7]。農産物としては穀物以外に、明和年間以降にサツマイモが作られ、幕末には養蚕が行われたが[11]寛永以降には貨幣経済に組み込まれ、農地の質入れや農間の余業として商工業に従事する農家も現れた[11]

明治時代にも当地は農地としてあり続けたが、都市化する東京の近郊として果樹栽培や酪農、都内向けの天然氷の生産、大正に入ってからは野菜作りも行われた[11]昭和に入り、小田急線の開通と共に向ヶ丘遊園も開設された。行政上は町村制の施行に合わせて向丘村の一部となり、のちに川崎市へと編入された。戦後には当地に宅地開発や東名高速道路の建設など、開発の波が押し寄せ、風景も一変していった。そんな中で遺跡も多数発見され、なかには東高根森林公園などのように保護される事例もあった。川崎市が政令指定都市に移行した際、当地はほかの旧向丘村域同様に高津区に所属したが、住民の希望により一部が多摩区へと編入され、同時に住居表示が施行された[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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