長宗我部氏
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}丸に七つ片喰(まるななつかたばみ)
本姓不明
長宗我部氏(ちょうそかべし/ちょうすがめし)は、日本の武家の一つ。長曽(曾)我部とも記される。室町時代以降、通字に「親」を用いた。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。
中世の土佐国長岡郡に拠った在地領主(国人)で、土佐の有力七豪族(土佐七雄)の一つに数えられる。戦国時代に勢力を広げ、元親の代で戦国大名に成長し土佐を統一する。さらに隣国の阿波・伊予に進出したが、羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに敗れ、土佐一国に減封されて臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦する。
元親の跡を継いだ子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍に参戦・敗北し改易される。盛親とその子は大坂の陣で大坂方に味方して刑死し、大名としての長宗我部氏は滅亡、嫡流は絶家したとされる[注釈 1]。 古代豪族秦氏[注釈 2]の子孫とされるが[1][2]、資料による裏付けは不十分で自称の範囲にとどまる。 秦河勝は、丁未の乱(587年)で聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功を立て、信濃国に与えられた領地に子の広国を派遣した。その子孫で信濃国更級郡の住人の秦能俊(長宗我部能俊)が土佐国に入って、長宗我部氏を称したとされる[3]。能俊が土佐に入部した時期は説によって大きく異なるが、平安時代末期
出自
延久年間(1069年 - 1073年)説[4]。
保元の乱(1156年)に際し崇徳上皇方に属して敗戦した結果、土佐に奔(はし)ったという説[3]。
承久の乱(1221年)において仁科氏と戦い、その功で所領を与えられ地頭となったとする説[2]。
能俊は土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷、現・南国市岡豊町・国分周辺)に定住したため宗我部氏を自称したが、近隣の香美郡にも宗我郷(宗我部郷、現・香南市赤岡町・吉川町周辺)があって宗我部氏を名乗る一族がいたため、長岡郡の宗我部氏は長宗我部とし、香美郡の宗我部氏は「香宗我部」を名乗って互いを区別したと言われる[5]。鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)にはすでに「香宗我部」の書状が見える[2][注釈 3]。なお、『元親記』などに基づいて長宗我部氏が国司として下向し土着したとする説があるが、国司任官を実証する史料はない[2]。
海音寺潮五郎は、長宗我部氏の祖は、蘇我部の管理人であった秦氏、あるいは蘇我部そのものの末裔であるとする説を提唱した[6]。 長宗我部氏の本貫である土佐国長岡郡宗我部郷は古くより「宗部」・「曽加倍」[7]などと記載が一定しなかったこともあり、この名字の表記も「長宗我部」・「長曽(曾)我部」[注釈 4]の両方が用いられている。以下、本項では「長宗我部」に統一する。 読みは現代では「ちょうそかべ」が普通である。しかし安土桃山時代の文献を見ると、『御湯殿上日記』では「ちやうすかめ」、『多聞院日記』では「チヤウスカメ」[8]という仮名表記になっており、さらにルイス・フロイスの『日本史』に「Chosugami」とあることから仮名表記の「か」「カ」は濁音と考えられ、当時は(現代仮名遣いで表せば)「ちょうすがめ」と読んでいた可能性が高い。 一方、現・当主の17代目長宗我部友親は「ちょうそがべ」の読みを用いている[注釈 5]。
「長宗我部」の表記と読み
歴史
初期岡豊山遠景岡豊城から見た香長平野
7代兼光の頃には多くの庶流を出していることから、当時の一般的な支配体制である惣領制により発展したと考えられる[2]。 南北朝時代の争乱においては、11代信能は足利氏方に属し、土佐国守護であった細川顕氏の下で長岡郡八幡山東坂本において南朝勢力と戦っている。その功で香美郡吉原庄(現・香南市吉川町西部)の他、長岡郡・香美郡・土佐郡の各地に計1134町(後世の天正期検地の石高、1町はおよそ10石)の土地を与えられ、発展の基礎を築いている[2]。
南北朝・室町時代