長城
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この項目では、建造物の長城について説明しています。その他の用法については「長城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

長城(ちょうじょう)とは、外敵の侵入に備えるため、国境線に沿って建造された土塁城壁をいう。長城という場合、特に万里の長城のことを指すこともある。
古代中国の長城

千里長城

万里の長城

八達嶺長城


中国北方王朝とさらに北の部族との長城

遼辺壕、金界壕、いわゆる「チンギス・ハーン長城」

遼代あるいは金代に北方遊牧民の侵入に備えて築かれた防御施設。モンゴル国では「チンギスの壁(チンギシーン・へレムЧингисийн хэрэм)」,「チンギスの道(チンギシーン・ザムЧингисийн зам)」,「チンギスの壕(チンギシーン・ダランЧингисийн далан)」,ロシアでは「チンギスハンの土壁」,中国では「遼辺壕」,「金界壕」,「嶺北界壕」などと呼ばれる[1]

西夏長城(チンギス・ハーン長城)

ゴビ砂漠で発見されている、西夏の北境に築かれた長城と要塞。[2][3][4]
ローマ帝国の国境線
イギリス


ハドリアヌスの長城

スコットランド


アントニヌスの長城

ドイツ


リメス

日本の防塁詳細は「防塁」を参照

水城 ? 7世紀、福岡県太宰府市内から大野城市内に築かれた。博多湾から大宰府への侵攻に備えるための防塁である。

阿津賀志山防塁 ? 平安末期福島県伊達郡国見町に築かれた。奥州藤原氏によるもので、源頼朝ら源氏勢力の侵入を阻止するための防塁である。

元寇防塁(石築地) ? 鎌倉時代の1288年から1332年までに福岡県福岡市博多湾一帯に築かれた。鎌倉幕府によるもので、モンゴル帝国による日本侵攻に備えた防塁である。

注釈^ 日本モンゴル学会コラム「"チンギス・ハーン長城"報道の顛末」(松川節)
^ 失われた万里の長城、モンゴルで発見(ナショナル ジオグラフィック,2012.03.21)
^ 「タングートの国、西夏の北疆:考古学的証拠と史料にもとづいた」(コヴァリョフ A.&エルデネバータル D.)
^ 「内外モンゴル・河西回廊・楼蘭における一辺130mの囲郭遺跡の分布と展開?衛星画像・GISの歴史学・考古学への応用?」(森谷一樹)

関連項目



城壁

城柵

エリコの壁

ゴルガーンの防衛壁(英語版)(Great Wall of Gorgan) ‐ 「ゴルガーンの長城」「アレキサンダー・バリアー」、考古学者からはレンガの色からレッドスネークと呼ばれる。

アレキサンダーの門(英語版) ‐ ゴルガーンの防衛壁とも接続している。別名:カスピ海ゲート。アレキサンダー大王によって建設された防衛壁とされている。


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