長和
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長和(ちょうわ)は、日本元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1017年までの期間を指す。この時代の天皇三条天皇後一条天皇
改元

寛弘9年
12月25日ユリウス暦1013年2月8日) 改元

長和6年4月23日(ユリウス暦1017年5月21日) 寛仁に改元

出典

礼記』(冠義)の「君臣正、父子親、長幼和而后礼義立」より。

菅原宣義と大江通直が勘申した候補には、他に「太初」(中国の年号をそのまま使用。漢の武帝時代)、「政和」(出典は『礼記』)と長和の三つがあったが、和字が不快だが長和がよいのでは、と陣定で決まった(ここでは不快だと評されているが、「○和」という元号は日本では承和から令和まで19回採用されている)。

前回の改元の際には大江匡衡が勘申した「寛仁」と「寛弘」から、寛仁がよいのだが一条天皇の諱(懐仁)と音が重なるため寛弘が選ばれたという経緯があり、それなのに今回の勘文では寛仁の出典が見つけられずに候補に上がっていないということで道長がぼやいている(匡衡はこの年の7月に死んでいる)。陣定の場でも「寛仁は吉年号なんだがなあ」と未練がましいことを言っているが、候補に上がっていない以上は選ぶわけにはいかない(道長というとワンマンという印象を持たれている側面があるが、その彼であっても、規則に横車を押すようなことはしていないのである)。なお道長はよほど寛仁に愛着があったと見え、後一条天皇即位の後に元号として採用している[1]。道長はよほど「寛」の字を好んだらしく、娘の一人に寛子と名付けており、父の影響かは不明だが息子の頼通もやはり娘の一人に寛子と名付けている。
長和年間の出来事

1013年(長和2年)

4月、
春宮権亮藤原道雅が、敦成親王の従者に命じて、敦明親王の従者であった織部司挑文師・小野為明を拉致して自邸に連行、瀕死の重傷を負わせる暴行事件を起こす。後日、敦明親王の訴えにより道雅は謹慎処分となる[2]

6月、左大臣藤原道長が、従者たちに命じて、祇園御霊会(祇園祭)に参加していた散楽人たちに暴行を加える[3]

8月、正三位藤原兼隆が、自邸の厩舎人を、人に命じて撲殺させる[4]

8月15日、藤原道長が、妻の外出準備の手際が悪かったとして、家司だった藤原方正と紀忠道を自邸の小屋に監禁する[5]


1016年(長和5年)

1月、三条天皇譲位、敦成親王が即位して後一条天皇となる。道長摂政となる。

8月、尾張国郡司百姓ら、国守藤原経国を訴える。


西暦との対照表

※は小の月を示す。

長和元年(壬子)一月二月※三月四月五月※六月七月※八月九月※十月閏十月※十一月十二月※
ユリウス暦1012/1/262/253/254/245/246/227/228/209/1910/1811/1712/161013/1/15
長和二年(癸丑)一月二月※三月四月※五月六月七月※八月九月※十月十一月※十二月
ユリウス暦1013/2/133/154/135/136/117/118/109/810/811/612/61014/1/4
長和三年(甲寅)一月※二月※三月四月五月※六月七月※八月九月十月※十一月十二月※
ユリウス暦1014/2/33/44/25/26/16/307/308/289/2710/2711/2512/25
長和四年(乙卯)一月二月※三月※四月五月※六月閏六月※七月八月九月十月※十一月十二月※
ユリウス暦1015/1/232/223/234/215/216/197/198/179/1610/1611/1512/141016/1/13
長和五年(丙辰)一月二月※三月※四月五月※六月七月※八月九月十月※十一月十二月
ユリウス暦1016/2/113/124/105/96/87/78/69/410/411/312/21017/1/1
長和六年(丁巳)一月※二月三月※四月※五月六月※七月※八月九月十月※十一月十二月
ユリウス暦1017/1/313/13/314/295/286/277/268/249/2310/2311/2112/21

脚注^ 大津透 『日本の歴史06 道長と宮廷社会』 講談社学術文庫 ISBN 978-4062919067、80-81p。


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