長原止水
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長原 孝太郎

誕生日1864年3月23日
出生地美濃国不破郡岩手村
死没年 (1930-12-01) 1930年12月1日(66歳没)
死没地東京市本郷区
国籍 日本
運動・動向白馬会
芸術分野洋画挿絵漫画
教育小山正太郎原田直次郎黒田清輝
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長原 孝太郎(ながはら こうたろう、文久4年2月16日[1]1864年3月23日[2]) - 昭和5年(1930年12月1日)は、日本の洋画家は止水(しすい)[1]東京美術学校教授を務めた。
来歴

文久4年、竹中家藩士である長原武の子として美濃国不破郡岩手村(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)に生まれる[1][3][4]。父の武は江戸に出て山鹿素水に帥事して軍学を修め、また、本草学にも興味を持ち植物標本写生帳を描いた人物で、その秀逸な画技は称賛されたという[4]。5歳にして父を亡くした後、明治5年(1872年)に叔父の山田雲叟(芸叟)から漢学と画学を学んだ[3][4]。その後は母の実家である大垣藩士の宮田良右衛門方へ転居しており、明治9年(1876年)には大垣第三小学校を卒業している[3]。この頃、亡父の親友であった同郷の岩手出身の神田孝平は兵庫県令を務めていた[3][4]。神田の計らいにより孝太郎は神田家へと引き取られ、同年4月に神戸花隈英学校へ入学して英語を学んだ[3][4]。同年9月に神田は元老院議官に任じられた為、居所を東京へ移すのに伴い孝太郎も翌月に東京へ転居し、明治10年(1877年)2月に神田の共立学校へ入学した[3][4]。明治13年(1880年)9月、母の希望も有って医師と成るべく東京大学予備門へと進むが、その後は母の病により予備門を退学して大垣へと帰っている[3][4]。明治16年(1883年)に再度上京して神田孝平の斡旋により小山正太郎の画塾不同舎で西洋画を学び始めた[3][4][5]。一方で神田孝平の養嗣子である神田乃武からは英学を学んでいる[3][6]。この頃には原田直次郎安藤仲太郎五百城文哉らとの交友が始まった[6]。また、フランスの漫画家であるジョルジュ・ビゴーから影響を受けるとともに親交を深めた[3][6]「めざまし草」に掲載された長原孝太郎の漫画

明治17年(1884年)に京阪地方へ旅行し古代美術を研究、明治18年(1885年)に坪内逍遥の小説「当世書生気質」の挿絵を描いた[註 1]。この他、与謝野鉄幹伊良子清白森鴎外島崎藤村などの文士と交流し、その本の装幀なども手掛けている[3]。雑誌の挿画や装幀は他にも「中央公論」、「白百合」、「早稲田文学」などでも手掛け、孝太郎はブックデザイナーの先駆けとして認知されている[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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