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長冨 浩志ハナマウイ野球部 コーチ #70
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県船橋市
生年月日 (1961-06-10) 1961年6月10日(62歳)
身長
体重180 cm
90 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1985年 ドラフト1位
初出場1986年4月5日
最終出場2001年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
千葉日本大学第一高等学校
国士舘大学
電電関東
NTT関東
広島東洋カープ (1986 - 1994)
日本ハムファイターズ (1995 - 1997)
福岡ダイエーホークス (1998 - 2002)
監督・コーチ歴
福岡ダイエーホークス
福岡ソフトバンクホークス (2003 - 2006)
石川ミリオンスターズ (2007 - 2008)
長崎セインツ (2009 - 2010)
三重スリーアローズ (2011)
ハナマウイ
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長冨 浩志(ながどみ ひろし[注 1]、1961年6月10日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉日大一高ではエース兼四番打者として、1979年夏の甲子園千葉県予選で準決勝に進出するが、習志野高にコールド負け。 高校卒業後は国士舘大に一般入部。東都大学野球リーグでは二部リーグが長く、一部リーグ出場は3シーズンにとどまる。7季連続の入替戦登板も経験[1]。4年次には主将として春季二部リーグに優勝、二部MVP、最優秀投手となる。入替戦で専大を降し、一部リーグに昇格するが、秋季リーグは振るわず最下位で残留を決めた。1983年秋にロッテオリオンズのドラフト3位指名を受けるも入団拒否。 大学卒業後、電電関東(2年目からNTT関東)に入社。1984年には川崎製鐵千葉の補強選手として都市対抗に出場。1回戦でリリーフとして登板し、5回を無失点に抑えるが電電北陸に敗退[2]。好投手として注目され、同年の第28回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出される。1985年には関東選抜リーグで優勝。同年は日本通運の補強選手として都市対抗に連続出場。1回戦で好投するが住友金属に敗退[2]。同年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。 入団1年目の1986年は8連勝を含む10勝2敗、規定投球回には届かなかったが防御率3.04の成績で同年のカープのリーグ優勝に大きく貢献。セ・リーグ新人王にも選出された。同年の西武との日本シリーズでは2試合に先発。第3戦では郭泰源と投げ合い勝利投手となる。第7戦も5回を1失点と好投するが打線の援護に恵まれず敗退。 その後も主力投手として2桁勝利を3回記録するなど北別府学、大野豊、川口和久らと共に投手王国といわれた広島投手陣を支えた。1988年5月11日のヤクルト4回戦(神宮)では初回に打線が爆発し登板の前に打席の機会がめぐってきてホームランを打った。4回、6回にもヒットを放ち猛打賞を記録し、投げては完投勝ちと当人の一人舞台だった。同年9月9日対中日戦(広島市民球場)で長冨は落合博満、宇野勝、仁村徹の3人に内角攻めをした結果落合と仁村に死球をぶつけてしまい、両軍入り乱れての大乱闘になった[3][4][5][6]。1989年も10勝9敗と二桁勝利を記録、初めて規定投球回(12位、防御率3.46)に達する。しかし30代に入り年々成績は下降線を辿り、監督の交代や若手の台頭などで自身の立場が危ういと感じ、1994年のオフに自ら球団にトレード志願し木村拓也との交換トレードで日本ハムに移籍[7]。 移籍一年目にはこの年新任した上田利治監督の下初のリリーフ専任になり、主に二番手で登板し7勝7敗を記録し自身初の防御率2点台と復活したが翌年不調に陥る。1997年、背番号を0番に変更しサイドスローにも変更した結果、自己最多の56試合に登板し防御率も良化したがこの年のオフにチームの若返りを理由に戦力外通告を受ける。身の振り方を考えたた最中オフに当時ダイエーでコーチをしていた水谷実雄から王貞治監督が獲得を希望していると誘いがあり金銭トレードでダイエーに移籍[8][9]。
経歴
プロ入り前
プロ入り後