長与千種
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長与 千種
2022.12.04 撮影
プロフィール
リングネーム長与 千種
本名長與 千種[1]
ニックネームチコさん
身長167cm
体重71kg
誕生日 (1964-12-08) 1964年12月8日(59歳)
出身地長崎県大村市
所属Marvelous
スポーツ歴空手
ソフトボール
トレーナートミー青山
デビル雅美
山崎照朝
デビュー1980年8月8日
引退2005年4月10日
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長与 千種(ながよ ちぐさ、1964年12月8日 - )は、日本の女子プロレスラー実業家女優長崎県大村市出身。女子プロレスラーのカリスマの一人とされる[2]

父親は競艇選手長與繁[1]
来歴

競艇選手として財を成した父がいる裕福な漁師の家庭に生まれ、10歳まで何不自由なく育ったが、小学5年生の時に父が「保証倒れ」で億単位の借金を背負った。一家は離散し、4年間で親戚の家を5軒たらい回しにされた[3]

食べるのにも不自由する生活を送り、親戚から厄介者扱いされたため、居場所が無いと感じた長与は中学1年生になると勉強をしなくなり、学業成績は急降下した。成績が悪いという理由で血がにじむほど殴る数学教師が嫌で学校にも行かなくなった。そのような状況下で長与にとっての支えは父に勧められた空手であり、幼少期から男子ばかりの道場で学んだことが不登校・引きこもりになっても空手の稽古だけは休まなかった。親戚は不登校になった長与を持て余し、「もう面倒を見切れない」と父に引き取るように連絡した[4]

親戚に長与を預けた父を長与は恨み、父が引き取った最初の日に作ったすき焼きはテーブルごと引っ繰り返した。そんな長与を見た父は4年ぶりに母親に会いに大阪に行こうと誘った。以前は資産家としてチヤホヤされていた母が、4畳半ほどのアパートに住み、つつましいバーで客に頭を下げていたのを目の当たりにし、長与は我に返った。父の妹夫婦の家に預けられてからは「家族の一員」として優しく扱われ、中学2年生の時に学校に新設されたソフトボール部という学校内での居場所を見つけた。中学3年生になってからは女性の担任に恵まれ、学校にも再び通うようになった。本人は「空手とソフトがなければ、本当にどうなっていたかわからない」と振り返っている[5]

大村市立玖島中学校卒業後、上京。父からは競艇選手になることを勧められていたという[6]。空手で推薦入学する話もあったが、家族にこれ以上金の面倒を掛けたくないという理由から、進学の意思はそもそもなかった。出身中学で卒業後の進路に就職を選んだのは、長与が初であったと本人は聞いているという。担任の後押しでプロレス界入りに難色を示した学校側の了承を得た長与は、弁当の他に購買部で残ったパンで増量し、身長が160cmを超えた頃、体重が70kgになっていた[7]

中学卒業後に全日本女子プロレスに入門。長与が住んでいた地方は情報伝達が遅く、長与がオーディションについて知る頃には1980年入門のオーディションはすでに終了していたが、空手の関係者を通じて熊本のプロモーターに別枠で入門テストを受けさせてもらい、意外にもすんなり合格した。ビューティ・ペアの引退により女子プロレスが下火になっていたため、人材不足になっていたのだろうと、長与本人は後に分析している[7]

入門すると猛練習、雑用の山、極貧生活の日々が待っていた。スパーリングでは締め技を受けたが「参った」の仕方も教えてもらえなかったため、いつも失神するまで我慢した。寮生活では米とトイレットペーパー以外すべて自費であり、1ヶ月1万円の極貧生活を余儀なくされ、八百屋で野菜の切れ端を10円で貰い、後はマヨネーズとタバスコで味付けした[8]

1980年8月8日、東京都の田園コロシアムで行われた大森ゆかり戦でデビューした。デビュー当初は2リーグ制を採用していたため、Bチームに編入された[9]

デビュー2年目の1981年の全女は200大会以上あったが、A・Bチーム制が廃止されて選手が過多になったため、20試合にも出してもらえなかったと本人は記憶している。収入に困って家賃を滞納してアパートを退去させられた際には、デビル雅美が家賃を肩代わりして自身のマンションへの居候を認めた[10]。新人当時からデビルには非常に可愛がられていた。

新弟子時代の長与とダンプ松本はプロレスが強くない上に個性がないため、全くの落ちこぼれであった。デビュー前2人は「辞めてしまえ」などと罵倒され、デビュー後2年はいじめの標的にされた[11]

デビュー後、先輩レスラーとの軋轢や、自身のファイトスタイルが周囲や観客に受け入れられないことに失望し、引退するつもりでいた矢先「どうせ辞めるのならやりたいことをやって辞めよう」と考え、当時同じように悩んでいたライオネス飛鳥と意気投合し、1984年8月に飛鳥とのタッグチームクラッシュギャルズ』を結成。それまでの女子プロレスにほぼ見られなかった、男子プロレスのエッセンスを取り入れたファイトスタイルで、女子プロレスの新たな世界を作り出し、注目される。長与がストロングスタイルを貫いた理由として、かつてお色気路線の女子プロレスがあったことやビューティ・ペアの頃はファンがプロレスより歌を目当てにしていたことから、女子プロレスをプロレスとして認めさせたいという思いを持っていた[12]。しかし2016年の文献では、同年5月27日のリコシェvsウィル・オスプレイ戦の試合運びを例に出して、技が高度化する一途の日本プロレス界はショープロレスに転換する時期が来ていると私見を述べている[12]

入場時にはリング上で歌を歌い、ベビーフェイスタッグチームとして、ヒール極悪同盟との抗争で女性ファンの人気を博し、1977年のビューティ・ペア以来の大ブームを作り出す。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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