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長三洲
長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は?(ひかる)。幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、?客など。 勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の咸宜園の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人としての名声高く、漢学の長三洲、洋学の福澤諭吉として明治前半期の教育界の双璧を成した。水墨画や篆刻の腕前も一流であった。 長男は西洋史学者の長寿吉。 天保4年(1833年)、豊後国(大分県)日田郡馬原村の儒家、長梅外の第3子として生まれる。幼い頃から父梅外の薫陶を受け、15歳で広瀬淡窓の門に入り、後に淡窓の弟の広瀬旭荘の塾で塾生を教えた。詩・書・画・篆刻をよくし、詩と書は特に有名で、死後編纂された詩集『三洲居士集』は全11巻(約2000首)に及ぶが、これに掲載されていない作品も多数存在する。書は顔真卿の書法(顔法)を堅く守り、顔法の開拓者として名高い。明治10年(1877年)顔法で執筆した『小学校習字本』が発行された。 幕末の頃は尊王攘夷の志士と交わり、国事に奔走す。長州藩に身を寄せつつも、二豊(豊後、豊前)の倒幕運動の中心人物として暗躍する。薩長同盟の立役者の一人でもある。戊辰戦争においては、仁和寺ノ宮嘉彰親王の越後口征討軍の参謀として、西園寺公望、壬生基修、山県狂介らとともに従軍し、その後、長岡、会津を転戦する。 戊辰戦争後は、山口藩議政局書記として明倫館御試仕法及び小学規則を制定の後、掌吏に昇格し、長州兵の兵制改革に携わるが、この改革により奇兵隊脱隊騒動が勃発、木戸孝允らとともにこれを鎮圧する。毛利元徳の薩摩行に随行後上京する。明治3年(1870年)10月、太政官権大史、制度局員となり、江藤新平とともに、月2回の御前会議(国法会議)に出席し諸制度を起草する。また、「新聞雑誌」発刊に携わり、静妙子名で「新封建論」を発表し、廃藩置県を主唱する。 明治5年(1872年)、大学少丞に任じられ、学制五編を起草、同年8月に頒布された明治学制の中心的な起草者となる。以後、文部大丞を任じられる。その後、教部大丞を任じられると、西南学区巡視に赴き、9か月近くかけて西日本の教育状況をつぶさに巡察して回る(大阪、京都、三重、奈良、滋賀、兵庫、広島、香川、愛媛、徳島、高知、島根、鳥取、山口、福岡、日田、佐賀、熊本、天草、長崎、鹿児島、日向、佐伯、府内(大分)、別府、高田)。以後、文部省学務局長、侍読、宮内省の文字御用掛などを歴任する。明治12年(1879年)、46歳のとき、官を退いて文書画の道で余生を送った。 明治13年(1880年)、楊守敬の渡来により日下部鳴鶴、巖谷一六、松田雪柯を中心に六朝書道の普及運動が盛んになったが、三洲は関心を示さず顔法に傾倒した。 石碑の揮毫も手がけており、現在全国に50基ほどを確認できる[1]。 略年譜天保4年1833年9月23日豊後国日田郡馬原村矢瀬に生まれる。 三洲の住所録「幽玄庵朋友故旧親戚門人宿処禄」(明治26年)が現存しており、その中に多数の門人の氏名・住所が記されている。 門人として記載されているのは、以下の人物[2]。 秋月新太郎(貴族院議員)、秋月c蔵、荒木古童、跡見玉枝、安藤与総次郎、赤松連城、麻生忠造、池内宏、池辺棟三郎、井上菊夫、石黒忠悳、伊藤弥次郎、伊藤博文、岩越忠勝
概説
略歴
嘉永元年1848年15歳広瀬淡窓の咸宜園に入門。
嘉永6年1853年20歳広瀬旭荘の塾で塾生を教える。
安政4年1857年24歳旭荘のもとを辞し、国事に奔走する。
元治元年1864年32歳奇兵隊に参加、英米蘭仏四国連合艦隊と交戦、前田砲台を守って後頭部を負傷。
慶応元年1865年33歳大宰府で長州藩主の親書を西郷隆盛に手渡す。その後、幕府の追捕を逃れ、豊後各地を転々とする。
明治元年1868年35歳奇兵隊に復帰、越後口征討軍の参謀として長岡、会津を転戦する。
明治3年1870年37歳太政官権大史、制度局員となる。
明治4年1871年38歳任大学少丞兼制度局。清国に赴く。
明治5年1872年39歳文部少丞となり学制五編を起草、文部大丞となる。
明治6年1873年40歳叙従五位。5月大学区巡視、6月任教部大丞、西南学区巡視に出立?明治7年3月まで。
明治7年1874年41歳免文部大丞、侍読。任歴史課御用掛、宮内省御習書御用掛。
明治8年1875年42歳6月、任補五等出仕地方官会議書記官。8月書記官免。9月免出仕。
明治9年1876年43歳木戸孝允とともに明治天皇の大和京都行幸のお供。
明治10年1877年44歳修史局第四局総指。修史局残務取調御用掛。三洲書『小学校習字本』が発行される。内業博覧会審査委員。
明治11年1878年45歳任宮内省御用掛、文学御用掛。草行松菊帖を著す。
明治12年1879年46歳官を退き、文書画に専念する。明治天皇、特旨をもって永久侍書侍読を沙汰。
明治13年1880年47歳斯文学会を創立する。
明治23年1890年58歳漢詩専門雑誌「咸宜園」発刊。
明治25年1892年60歳「書論」出版。
明治28年1895年62歳永眠。墓所は多磨霊園。
門人