鎖陽城ユネスコ世界遺産
都市城壁
所在地
鎖陽城(さようじょう、中国語: ??城、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Su?yang Cheng) は、中国北西部の甘粛省酒泉市瓜州県にあるシルクロードの都市遺跡で、苦峪城(くよくじょう)とも呼ばれる。紀元前111年に前漢の武帝によって敦煌郡の冥安県の政庁が設置されたが、295年に西晋の恵帝によって現在地に移された。唐・西夏の時代には、晋昌郡(後の瓜州)郡都として栄えた。最盛期の人口は5万人と推定され、1000年以上にわたり河西回廊の重要な行政・経済・文化の中心地であったが、16世紀の明代に、モグーリスタン・ハン国のマンスールによる攻撃を受け、破壊された。
遺跡は、内城・外城、そしていくつかの羊馬城で構成されている。城壁の外側には、考古公園(国家考古遺址公園)が広がり、 冥安県時代の遺跡、2,000以上の墓、全長90キロメートル以上の運河がある大規模な灌漑システムの遺跡が残っている。この考古公園には、他にも塔爾寺・東千仏洞石窟・鹸泉子石窟・旱峡石窟などの仏教遺跡が含まれている[1]。
中国の全国重点文物保護単位 (No.4-50) に指定されている。2014年には、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。 鎖陽城は中国北西部の甘粛省酒泉市瓜州県鎖陽城鎮の南東にあるゴビ砂漠に位置している。海抜1,358メートルの河西回廊にある古代オアシス都市であった。約1,700年の歴史の中で、シルクロード西域の敦煌と東の酒泉をつなぐ、政治・軍事・経済・文化の中心地であった[2]。莫高窟敦煌玉門関陽関楼蘭鎖陽城 遺跡は、内城・外城、およびその間にあるいくつかの「羊馬城」から構成されている[2]。 内城は、 面積が285,000平方メートルの不規則な長方形をしている。四方の城壁の長さは、493.6メートル(東)、576メートル(西)、457.3メートル(南)、534メートル(北)である。版築の基礎は幅19メートルで、高さ9?12.5メートルである[2]。 2本の大通りがそれぞれ西門と北門から伸びており、そこから多くの小さな通りや路地が枝分かれしている。内城は、より広い西地区と狭い東地区に分かれている。西地区では多くの家屋跡や厚い木炭の層が発見されているが、東地区ではほとんど残っていない。東地区には政庁や上級官吏の住居群があり、西地区には一般住民が住んでいた可能性が高い。城内北西の角には、高さ18メートルの日乾し煉瓦で出来た望楼が残っている[2]。 外城も不規則な長方形をしている。その大きさは、東が530.5メートル、西が649.9メートル、北が1,178.6メートルである。南側の壁は東側が497.6メートル、西側が452.8メートルになっている。外壁の基礎は幅が4?6メートルで、壁の高さは4?11メートルである。外城の北側は、内城の北側の内壁によって他の地区と分割されている[2]。 外城は、唐代に最盛期を迎えた鎖陽城の最大領域と考えられている。南方の山岳からの洪水により、城壁の南側は破壊されて、二つの領域に分断されている。ほとんどの建物が破壊または損傷しており、その残骸は外城で発見され、厚さ70センチメートルの洪水堆積物で覆われていた。
位置
遺跡
内城内城城壁
外城外城の南側