鎌田実
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医師で諏訪中央病院名誉院長の「鎌田實」とは別人です。

鎌田 実基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県三原郡広田村(現:南あわじ市
生年月日 (1939-03-08) 1939年3月8日
没年月日 (2019-08-01) 2019年8月1日(80歳没)
身長
体重177 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り1957年
初出場1957年6月12日
最終出場1972年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


兵庫県立洲本高等学校

大阪タイガース
阪神タイガース
(1957 - 1966)

近鉄バファローズ (1967 - 1969)

阪神タイガース (1970 - 1972)

コーチ歴


阪神タイガース (1971 - 1972)

近鉄バファローズ (1993 - 1994)

神戸大学海事科学部

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鎌田 実(かまた みのる、1939年3月8日 - 2019年8月1日)は、兵庫県三原郡広田村(現:南あわじ市)出身のプロ野球選手内野手)・コーチ解説者評論家
人物・来歴
プロ入り前

男四人兄弟の末っ子として生まれ、生まれて10日目に父が亡くなった。父は近隣地区の情報を特化する新聞を発行して生計を立てていたが、大黒柱が倒れ、家族は窮地に追い込まれる[1]。長男もまだ働く年齢ではなく、母が新聞発行を引き継げるわけもなく、乳呑み児を抱いて淡路島内の実家に引っ越し、呉服を売り歩く商売を始めた。買ってくれるのは親戚だけで、母は自分の着物を質屋に入れ、実父の助けも借りて生きた[1]。淡路島は空襲も少なく、周りは海で温暖な気候であったため、魚や野菜など食べ物に困ることはなかった[1]

鎌田は誰もが目を見張る野球少年に成長し[1]洲本高校では同期のエース蔦行雄を擁して、4番打者、遊撃手として活躍。2年次の1955年には秋季近畿大会県予選準決勝に進むが、渡海昇二らのいた芦屋高に9回サヨナラ負け。3年次の1956年には夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、県尼崎高今津光男の好投に抑えられ、またも9回サヨナラ負け。甲子園出場はならなかったが、プロのスカウトが神戸から船に乗って島に来た[1]。鎌田は「大阪だけは嫌。行かんよ」と言い続け、中日佐川直行スカウトが強く鎌田を求めた。同じ頃には巨人水原茂監督が人を介して鎌田獲得に本腰を入れ、「慶応大に推薦入学、そして巨人軍に来てもらう。この約束は私が死んでも成立させる。私を信じなさい」と攻めた[1]。鎌田の母は長男と次男を大学に通わせるほど働いたが、三男、四男までとなるとそうもいかず「堪忍な。許してな」と頭を下げた。大学に入りたかった四男の鎌田は「(水原さんは)学費も寮費も生活費も面倒をみる、とゆうてくれてはる。慶応へ行きたい。どうしてあかんの?」と懇願したが、長男が「お前は母さんの苦労(貧乏)を分からんのか。働いて給料をもらって、母さんを助ける気にはならんのか?」と叱り、鎌田が「でも兄貴は大学へ…」と言った途端に兄は立ち上がった[1]。水原ルートを諦めた鎌田に対し、中日の佐川が獲得へ全力を注いだ。最高額で契約しようとした直前、オーナーが「全国大会(甲子園)にも出てない高卒にそんな高い契約金は払えん。白紙に戻せ」と憤怒し、佐川はその場で退職を伝えて大阪へ戻り、鎌田の母と長男、鎌田本人を甲子園前の旅館に呼んだ[1]。鎌田家に時間を与えず入団に導き、佐川は「息子さんが大阪を嫌がっているのは知っています。名手の吉田義男がいるから出番がないと。


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