鎌倉
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かまくら」とは異なります。

「鎌倉」のその他の用法については「鎌倉 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度19分07.7秒 東経139度33分06.9秒 / 北緯35.318806度 東経139.551917度 / 35.318806; 139.5519171988年の鎌倉付近の空中写真。南を相模湾、東・西・北の三方を山に囲まれた地形。右下に三浦半島が伸びる。1988年(昭和63年)撮影の8枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 鎌倉(赤丸で囲ったあたり)と三浦半島の位置関係鶴岡八幡宮鎌倉大仏(高徳院 阿弥陀如来像)

鎌倉(かまくら)は、三浦半島西岸の地名であり[1]、同半島の基部にあたり、相模湾に面している[2]

平安時代に河内源氏のゆかりの地となり[2]源頼朝1180年(治承4年)に当地に根拠地を置き[2]、後年ここで鎌倉幕府を開いて[注釈 1]、政治の中心地となった[1]。しかし、室町時代末期には衰退した[2]

現在も長谷の大仏、鶴岡八幡宮鎌倉五山など史跡や寺社が多く残っている[1]。また高級住宅地として有名[1]観光地・行楽地としても知られ、その海岸(由比ヶ浜および材木座海岸)は有名な海水浴場でもある[1]
概要

奈良時代相模国鎌倉郡郡衙所在地となり、古代より地域の中心地だった。771年までは東海道が経由し上総国へ向った。

平安時代桓武平氏当主の平直方が居館を構えたが、直方娘と河内源氏である源頼義との婚姻を契機として鎌倉を譲り渡したことで河内源氏のゆかりの地となった。源頼義は八幡宮を勧請した(後の鶴岡八幡宮)。治承・寿永の乱時に源頼朝が大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて政治の拠点とした。

鎌倉時代には日本の政治において、重要な位置を占めていた。12世紀末から14世紀半ばの1333年(元弘3年)まで幕府が置かれ、鎌倉文化が全国に広がるなど、大きな力を持つ場所となった。近代に入ってからの鎌倉には鎌倉文士と呼ばれる作家、美術家などの文化人が集まり住み、いくつかのドラマや小説などの舞台にもなるなど、古くから現代に至るまで重要な場所となっている。また、最近では小学校の修学旅行先となるなど、大いに賑わいを見せている

現在の鎌倉は中世の鎌倉とは断絶した地割りであるが、古都保存法によって乱開発が規制され、古社寺や史跡、神奈川県唯一の国宝建築である円覚寺舎利殿を含めた文化財が比較的多く残る。また市が観光振興に力を入れていることもあり、観光を主な産業として今なお繁栄する。

本項では「歴史都市」「文化都市」「観光都市」としての「鎌倉」について述べることとする。
天然の要塞朝夷奈(朝比奈)切通

鎌倉の市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した地形をなすことから、天然の要害と形容される。東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」と呼ばれる山の尾根筋を開削した道路(切通し)を通らねばならず、後述する赤星直忠による研究以来「防御しやすい土地柄」と考えられるようになった[3][4][5]鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がここを拠点としたのは、父祖ゆかりの土地であったこととともに、こうした地理的条件による部分が大きかったとされる。

市街地の北西には源氏山(92メートル)があり、山並みは高徳院(鎌倉大仏)の裏手を通って稲村ヶ崎まで伸びている。市街地の北から東にかけては六国見山(147メートル)、大平山(159メートル)、天台山(141メートル)、衣張山(120メートル)などの低い山が連なり、逗子市との境に当たる飯島ヶ崎、和賀江島(わかえじま)方面へ伸びている。市街地周辺の山はいずれも標高100?150メートル程度だが、標高の低い割には急坂やアップダウンの激しい山道が多いとされ、市街地北方の尾根道には「鎌倉アルプス」の別称がある。
鎌倉城詳細は「鎌倉城」を参照

この地形的特徴と、九条兼実日記玉葉』の寿永2年(1183年)の記事に「鎌倉城」という言葉があることから、赤星直忠の研究以来、当時の鎌倉は全域が城塞(城郭都市)と見なされていたとする説がある[3][4][5]

ただし、この言葉の解釈をめぐっては、赤星により防御施設とされた「お猿畠の大切岸」などに代表される山上の切岸状人工地形が、建築土木材用の石切場(採石場)であることが発掘調査で判明したことや[6]、『玉葉』での「城」という言葉が、城郭というより源頼朝の「本拠地」という意味合いで使われているとする齋藤慎一の指摘などがあり[7]、鎌倉=城郭都市と見なすかについては諸説がある[8][7]
鎌倉の範囲

現代の鎌倉市域は、南は相模湾に面し、北は横浜市、東は逗子市、西は藤沢市に隣接した区域で、面積は39.5平方キロメートルである。これは周辺の腰越町(1939年合併)、深沢村(1948年合併)、大船町(おおふなまち、1948年合併)が合併した後の市域である。古代の鎌倉はこれよりずっと狭い地域で、前述の東・北・西の三方を山で囲まれた地域に相当し、いわゆる「旧鎌倉」(=鎌倉七口の内側)に当る。これは鎌倉市内の市街地郊外に位置する諸地域にも「北鎌倉」、「鎌倉山」、「西鎌倉」、「鎌倉逗子ハイランド」等、「鎌倉」を名乗る地区があり、これらと区別する場合にも用いられる。なお、「旧鎌倉」の外側にある北鎌倉地区(旧大船町)は、鶴岡八幡宮のすぐ西「巨福呂坂」切通を越えた地域にあるが、最も鎌倉らしい風情を残す地区の一つであると言える。

鎌倉時代後期には、「鎌倉」の範囲は、東=六浦(横浜市金沢区)、西=片瀬川(藤沢市境)、南=小坪(逗子市)、北=山内(鎌倉市)にまで拡がった。


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