鎌倉街道
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鎌倉街道の趣を残す朝比奈切通し付近。

鎌倉街道(かまくらかいどう)は、鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代鎌倉政庁が置かれた鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。

これについては鎌倉往還(かまくらおうかん)[1]や鎌倉道(かまくらみち)[2]とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く[3]。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在する。
古道・鎌倉街道

古道としての鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府が置かれた鎌倉と各地とを結んだ道路網を指す[注釈 1]。鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられる。

1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉を中心に東国の各地域を結ぶ新たな道路整備に力を注ぎ、次々と放射状に延びる道路網が建設された[4]。東国15カ国[注釈 2]の御家人が番役として幕府に順番に奉仕したため、おおむねその範囲にわたる[2]。それだけではなく、古代朝廷では十分支配が及ばなかった東北地方蝦夷地まで交通圏が拡大したことや、西は越中飛騨信州から東国を経て鎌倉に向かう道筋が何本か明らかになっており、鎌倉街道あるいは鎌倉道と呼ばれる道はかなり広範囲に数多くあったとみられている[5]

鎌倉街道は、律令時代の官道五畿七道)に比べ、幅が不揃いで、曲がりが多く、複線の区間も少なくなかった。古道研究の専門家は、各地の武家や寺社が作った道を利用したためと説明している。また、鎌倉街道だったと言い伝えられながら、鎌倉街道の他区間とつながらない道がある。その理由として、鎌倉街道という言葉が使われるようになった江戸時代には、地元の道を、鎌倉街道だったと言い伝えるようになったことによると推測する研究者もいる[6]

鎌倉街道の幹線道は、五畿七道とほぼ同じく、全国の国府を通り、街道沿いに守護所も置かれた[4]が、その数はごく限られていた。特によく知られるのが、上道(かみつみち、かみのみち)・中道(なかつみち、なかのみち)・下道(しもつみち、しものみち)[注釈 3]とよばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線道3本で、さらに支線も加わり、現在でも鎌倉街道の名を残すところも多い[8]。鎌倉から武蔵上野の国府を通り、碓氷峠を越えて信濃へ行く道(上道)、東海道筋をたどる京鎌倉往還、鎌倉から甲斐とを結ぶ道(御坂路[9]、甲州鎌倉道[10])、下野の国府を通って白河関を越える道(中道)、常陸の国府を通って勿来関を越えて奥州へ行く道(下道)などがあった[4]。御坂路については、甲斐路(御坂路)の項目を参照。

一方で、鎌倉街道の呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で[11]、鎌倉時代に書かれた鎌倉政庁自らの記録である『吾妻鏡』をはじめ、当時の諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』(江戸名所圖會)などに鎌倉街道が散見されている[注釈 4]

軍事道路としての側面は、鎌倉時代初期に頼朝が、鎌倉から大軍を率いて奥州平泉藤原氏を滅ぼした奥州征伐の際に使用した。この他は幕府が実際に軍事目的で使用したという記録は多くない。元弘三年(1333年)の鎌倉幕府滅亡時、朝廷方の新田義貞が上道を通って鎌倉に侵攻した時に逆に利用された[14]
吾妻鏡

『吾妻鏡』で「鎌倉との往還道」という意味で用いられている道路名には以下のようなものがある。
京や
駿河遠江と鎌倉の間を繋ぐ東海道(さらに古代と同様に鎌倉より下総常陸へ至る道も含まれる)

鎌倉から丸子の渡しを通過し武蔵東部や下野に向かう中路

さらに中路を経て奥州に向かう奥大道

鎌倉から関戸の渡しを通過し武蔵西部や上州に向かう下道

下道からさらに信濃越後に向かう北陸道

鎌倉と下野足利荘とを繋ぐ経路上の道である武蔵大路(経路不明ながら上記の下道および古代の東山道武蔵路と重なる)


以下に、『吾妻鏡』に記述のある道路名について解説する。なお、東海道北陸道については各項目を参照のこと。
東海道

『吾妻鏡』の文治5年7月17日の条に、奥州征伐へ向かう「東海道大将軍である千葉常胤八田知家は、一族と常陸国および下総国の諸氏を率いて宇大、行方を経て岩城、岩崎を廻り遇隈河を渡り大手軍(頼朝軍)と合流すること」とある[15]。常陸国(東海道)からは北へ奥州への連絡道が古代より存在した。
中路および奥大道

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出典検索?: "鎌倉街道" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年1月)

『吾妻鏡』の文治5年7月17日の条に、奥州征伐へ向かう源頼朝率いる大手軍が中路より御下向されると記述されている[15][16]。鎌倉を7月19日に発向した頼朝軍は北上し、武蔵国東部を通り、7月25日宇都宮(古多橋驛)に到着、7月26日に宇都宮を発ち7月28日新渡戸驛に到着、翌7月29日白河関に至っている[17]

同じく『吾妻鏡』には、奥州平定後の記述として奥大道の文字も見え、建長8年6月2日の条に、奥大道に夜盗が出没して往来する旅人が困っているため、沿線の地頭等に警固するよう申し付けたとあり、その地頭等としての24名を挙げている[注釈 5][23]

これら地頭等の所領に相当する現代の自治体名は、鎌倉側から並べると、

神奈川県川崎市中原区上平間および幸区下平間(平間江地頭)[24][22][25][26][21]

東京都足立区宮城(宮城右衛門尉)[26]

足立区伊興 (伊古宇又次郎)[21]

埼玉県川口市本郷(矢古宇右衛門次郎:武蔵国矢古宇郷[注釈 6][注釈 7][25][26][29]

川口市鳩ヶ谷地区(鳩井兵衛尉跡)[注釈 8][25][26][29][21]

草加市谷塚町

さいたま市岩槻区(旧町名:渋江町)(渋江太郎兵衛尉:渋江郷)[25][26][29][21]

久喜市上清久・下清久・清久町(清久右衛門次郎:太田庄清久)[25][26][29][21]

栃木県小山市(小山出羽前司)[26]

下野市薬師寺(阿波前司:薬師寺朝村)[25][26]

河内郡上三川町多功

下野市児山(宇都宮五郎兵衛尉)[26]

宇都宮市田川西岸の市街部(宇都宮下野前司)[26][注釈 9]


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